モンダンヨンピルのクラウドファンディング第2話。

モンダンヨンピル事務総長、キム・ミョンジュン監督です。

「北」「南」「肖像画」について韓国の方々にミョンジュン監督の視点で丁寧に説明しております。

とても読み応えのある内容です。

長文ですがご一読下さい。

海を渡ってきた子どもたち - 第2話
故郷、祖国と在日朝鮮学校の生徒たち
ダウムニュースファンディング

朝鮮学校にかかっている肖像画に対する
ある南側のおじさんの断想


私の朝鮮学校の最初のシーンは、あまりにも強烈で忘れたくても忘れられません。黒い髪に黒いチマチョゴリ、その彩度0%の黒い波がフレームの下の部分の半分を占めて上部残りの半分は、彩度100%の塗料で塗られた「朝鮮民主主義人民共和国」の国旗と金日成父子の巨大な「肖像画」。大阪のとある朝鮮中級学校の卒業式の客席を占めた学生と舞台の背景画像でした。今から13年前の2002年早春の話です。


朝鮮学校高級部の教室には、今でも「肖像画」がかかっています。考えてみれば、私たちも子どもたちの頃、朴正煕、全斗煥肖像画が教室にかかっていた国民教育憲章を丹念に覚えています。しかし、そのような教育を受けたからといって、軍部独裁を支持することはありません。 ⓒモンダンヨンピル

オープニングシーンがあまりにも強烈で、13年間のランニングタイム中、朝鮮学校の子どもたちたちに会うために教室を出入りする時や、先生たちと楽しいおしゃべりをしていても、職員室を訪ねる際にも軽く頭を上げると視野に入ってくる「肖像画」に気づかないようにしても驚くことが一度や二度ではありませんでした。いくら剥がそうとしても剥がれない「最初のシーン」を克服して、どうやってあの時間を、あの子どもたちたちと一緒にしてきたのか、一方では驚きであり、一方では、感心したりもします。意外に粘り強い面が私にもあるようです。

事実の前で「克服」という言葉を使ったが、よく振り返ってみると「克服」はおろか、いつも「屈服」してきた時間でした。授業時間、教卓に立つ先生の姿を映そうとアングルを決めると例外なく入ってくる「肖像画」。ロングショットで映すにはとても負担の大きな教室でした。
だから、肖像画が入らないようにアングルを下げたり、先生に近づいていくことで解決するのです。

撮影をしながら、自らが「自己検閲」をしていました。私の脳裏に打ち込まれている「反共、反北」意識に屈服してしまうのです。実際に授業受けている子どもたち、先生の顔には、「あんなに穏やかな」表情が描かれているのですが。


「ウリハッキョ」で勉強する子どもたちの顔からは穏やかな表情を見つけることができます。 ⓒモンダンヨンピル

そうなんです。朝鮮学校の高級部教室(幼・初・中級部教室にはない)には、今現在も「肖像画」がかかっています。この肖像画が持つ象徴性のために、日本のすべての高等学校(外国人学校を含む)が受けている「高校授業料無償化」の恩恵を受けられずにいます。

また、地方自治体から受けてきた「教育補助金」も今は多くの場所で受けられずにいます。過去70年の間に、朝鮮学校は、まさにこの肖像画のために、日本政府とマスコミの差別と日本人の偏見、蔑視、嫌悪の対象となってきました。そして故郷である南からも疎外の対象となってきました。必ずしもこれだけが理由ではありませんが、学生数の減少と財政悪化、それに伴う学校数の減少なども続いています。

道理通りだと、当然、もっともっと古くからこの「肖像画」は、教室から降ろされなければならなかったかもしれません。その差別の手綱を、壁にかかった写真の額縁を降ろすことで逃れることができるのに、なぜそうしなかったのでしょうか?何がそんなに頑固な教育をすりょうにしているのでしょうか?

朝鮮学校のもう一つの象徴である女子学生たちのチマチョゴリを例にあげるとどうでしょうか?2002年朝日国交正常化交渉時に、金正日国防委員長が「日本人拉致」を認めながら「北朝鮮バッシング」狂風が列島を飲み込みました。

それ以前の90年代初頭に、北朝鮮のミサイル発射で発生した険悪な雰囲気と「チマチョゴ切り裂き」事件のために朝鮮学校の内部では、女子制服である「チマチョゴリ」を止めようという意見が出ました。結局、2002年「拉致問題」以降、日本の街中でチマチョゴリを着て登下校をする朝鮮女子学生の姿は見られなくなりました。名付けて第2制服と命名されたブレザーと変わったのです。


キム・ミョンジュン映画監督と広島朝鮮初中高級学校の子どもたちたちⓒモンダンヨンピル


長い間、朝鮮学校の象徴となったチマチョゴリはこうやって放棄することになりましたが、まだ「肖像画」は、あきらめていないようです。 「まだ」と言ったが、私の狭い見識には、今後も少々のことでは降ろさないと思います。むしろ差別と弾圧がひどくなればとひどくなるほど、より強く「肖像画」を守るのではないかと思います。

これを説明するには、やはり初期の朝鮮学校時代に戻らなければなりません。第1話クォン・ヘヒョ氏の記事にも書かれている国語講習所と、帰れずに永住した理由、学校閉鎖令等に関しては、今後も機会がありますので、ここでは省略します。その当時の在日朝鮮人の立場を要約することができれば、おそらく「解放されたが解放されていない貧しい異邦人の学校死守闘争の日々」ぐらいで表現することができるのではないでしょうか。

「恥ずかしい」歴史ではなく
誇りとしても良い歴史


このように簡単に表現しても1957年の事件だけは「肖像画」という象徴を理解するために考察する必要があるように思います。

この年は、在日朝鮮人の組織である「在日本朝鮮人総連合」(略称総連)が出来てから2年が経った時期です。再び自分たちの組織を持つようになった朝鮮人は、ほとんど自動的に「学校再構築」に拍車をかけます。同じ立場の友だち同士が「一緒にいる」ことの大切さ、他の国の言葉ではなく「ウリマル」を学び話す喜び、私たちの歴史、日本の学校で教えるように「恥ずかしい」歴史ではなく誇りにして良い歴史という事実など、貧しい学校けど「ウリハッキョ」だけの味を味わった2世でした。たとえ日本の地にあるが、そのような喜びを子どもたちたちに再び味わせたかった1世の同胞は​​、両腕をまくり上げて、学校建設に乗り出しました。

しかし、ひどい貧困は、学校敷地購入または借入で、チョーク一つ机一つちゃんと設けてあげられませんでした。
お金がある人はお金で、力がある人は力で惜しみなく学校づくりに捧げたが限界がありました。

ところが、乾いた空に恵みの雨が降ったように「北」で2億2千万円(​​当時タバコ1箱50円)という巨額の「教育援助費」が送ってきました。在日朝鮮人の90パーセントを超える人々が慶尚道と全羅道、済州島など休戦ライン以南出身です。道理からすると、南の李承晩政府から来なければならないお金でした。北政府は盛んに学校建設が進められていた1957年から1959年までの2年間で計7億円を超える援助費を送り、2012年までの教育援助費を合わせると158回469億円を超えるそうです。



在日朝鮮人の90パーセントを超える人々が慶尚道と全羅道、済州島など休戦ライン以南出身です。道理からすると、南の李承晩政府から来なければならないお金でした。 ⓒモンダンヨンピル

では、その時代大韓民国は
何の援助も
しなかったのか?



北朝鮮が巨額の教育援助費を送ってきて、これにより、「朝鮮総連」が勢力を伸ばして「朝鮮学校」が新たな全盛期を迎える現象を見た居留民団は李承晩政府に教育支援金を送ってくれるよう要請しました。
ところが、最初は黙って返事がなかった南がしぶしぶ支援金を送ってきます。野党国会議員が強く、政府に要求した結果だったそうです。

そうして送られた教育支援金の蓋を開けてみると、北が送った金額の10分の1しかならなかったいいます。
これにより居留民団の自尊心はひどく傷を負ったそうです。李承晩政府に向かって批判の声明まで出すほどだったそうです。

だから当時の在日朝鮮人の心には、

「南は生まれ故郷であり、北は自分たちを分かってくれる祖国」という認識が芽生え始めたのです。

1世の同胞たちの記憶の中に残っている「暖かい祖国の恵み」は、代を継いで、朝鮮学校という空間で伝えられ、また、伝えられました。

1959年の終わりに始まった「在日同胞帰国事業」は、日朝赤十字社の支援のもと、李承晩政府と南社会の激しい反対にもかかわらず、1984年までに約9万人が北に帰国しました。南出身の在日同胞らが南ではなく北に帰国したのです。 「社会主義地上天国」という宣伝をしながら「祖国」に戻ってくることを勧めていた北でしたが、最終的にこの運動は、経済建設のための「人材」補強という次元の対策でした。当時、在日同胞の人口が約60万だったそうなので、当然、北に親戚がいない在日同胞は珍しいほどでした。

そしてこの時に、朝鮮学校は再び最盛期を迎えます。帰国運動が盛んだった1961年の統計によると、全国に161校4万人以上の同胞の子どもたちたちが、朝鮮学校に通っていたそうです。

ここまで来れば、おそらく初期に南でも北でもなく帰郷のために作った朝鮮学校がどうして今「北」を支持して「肖像画」をかけるようになったか理解することができるでしょう。

それでも一方的には、このような話をする人もいます。


「教育援助費が朝鮮総連の事業に入っている。」

「朝鮮学校保護者たちは、ほとんど北朝鮮に親戚がいるので、裏切らことができない。」

そんなこともあると思います。北がこれまで教育援助費として援助した金額以上に在日朝鮮人は北に支援を惜しみませんでした。また、北に親戚がいますので、どうしようもないことだと言っても仕方ありません。人が暮らすであり、どのみち「国家」というのは、政治的な目的に応じて、個人の生活を生かすも、殺すも権力者の支配の手段に過ぎないから。

しかし、その後どのように状況が変わっても1世の同胞たちの心の中に残っている本当の祖国が「北朝鮮」であることだけは認めなければならなりません。最も難しいときに手をとってくれた同志なのだから。


南も北も直接体験する子どもたちたちは、自らの目で直接判断することができます。 ⓒモンダンヨンピル

それならば、
今の朝鮮学校の子どもたちたちにとって
「北」はどのような存在でしょうか?


もちろん朝鮮学校では、小中高、大学までの過程で、南より北をより友好的に教えるのが事実です。しかし、昔のように北を何社会主義地上天国とし、南を物乞いが多い貧しい国だと教えることはありません。いいえ、そうすることは出来ないし、することもできません。子どもたちのうち60%以上が韓国国籍であり、その子どもたちは休みの時に韓国旅行をします。

また、朝鮮学生は高3になると祖国訪問という形の修学旅行を北に行きます。一言で言えば南も北も直接体験する子どもたちだということです。

子どもたちがバカではない以上
自らの目で
判断することができます。



朝鮮学校で学ぶ祖国、朝鮮民主主義人民共和国に対して果たして子どもたちたちはどんな印象を持っているでしょうか?北に修学旅行を行って来たある朝鮮学校の女子生徒の言葉です。

「祖国の通りで友だちとチマチョゴリを着て存分に歌って歩くことができて本当に良かった。日本ではチマチョゴリを着ることもできず、身に着けて外に出て行けば、まず周りを探ります。変な目で見る人はいないか。しかし、祖国では、道を歩いて見れば初めて見る人が私に駆け寄ってあいさつしてくれる。日本から来た朝鮮学生でしょう?異国の地で民族教育を守るのは本当に苦労が多い。そう言いながら温く手をとってくれる。」

その言葉を聞いて、南からチマチョゴリを着て光化門交差点を歩く、朝鮮学生を想像してみました。その子どもたちたちが少し変なウリマルで大騒ぎして歌うことができますか?私たちはその子どもたちに駆け寄り、手を握ってあげることができますか?南の人々はこのように見ることが明らかです。 「どんなパフォーマンスをするのか?日本人のように見えるけどなぜ韓服を着るのだろう?」


映画「ウリハッキョ」からⓒモンダンヨンピル


一部の人々は、また、「朝鮮学校は金日成主体思想を洗脳させる学校だ」「金日成に忠誠を誓う学校だ」としながら、その証拠として「肖像画があるではないか?」と言います。そうですね。肖像画は厳然とあるが、それはすぐに「忠誠の誓い」と「洗脳教育」を意味するのでしょうか?

ご存知のように、朝鮮学校は日本という先進的な資本主義社会の中で70年の間存在してきました。テレビ、スマートフォン、インターネットを切断し鉄壁のような壁を積んだ後に、その中から出ていない住んでいるのならば、おそらくそれが可能でしょうね。

しかし、テレビでは連日「北」に対して偏向的な報道をして、それが嫌でニュースの代わりに韓流ドラマを見て、子どもたちたちは少女時代、カラ、東方神起、エキソの大ファンです。日本のアイドル歌手より韓国アイドル歌手がより良いという朝鮮学校の子どもたちたちです。

二度と私と私たちを
奪われたくない


学校に通う同胞の子どもたちたちの国籍(私はこれを問うのが本当に嫌いです。朝鮮学校では、国籍を問わないのに唯一韓国人だけが気にする傾向があります)は、60パーセント以上が韓国国籍、30パーセント程度が朝鮮籍(記号としての表記、北朝鮮国籍はありません。)、残りが日本国籍だというのに、誰もが

「在日朝鮮人」という共通の分母

を持っています。

最近では、ニューカマー(韓国からの移民)の子どもたちも増えており、ポルトガルの父、ブラジルの母を持つ子どもたちたちもいるほどです。親のどちらかが朝鮮人であれば、朝鮮学校は学生に受け入れてくれる「違い」よりは「同一性」をより大きく評価するのです。

このように、様々な情報が洪水のようにあふれて、様々な文化的刺激が日常に浸透し、多様な個性を持った個人が住んでいる日本で、さらに韓国から来た親、日本人の親、在日同胞3世の親たちが自分の家のように大切に、いつも見守るこの学校で、どうやって「洗脳教育」が可能なんでしょうか?

それならば、現在8,000人以上の学生とその親たちはなぜこの差別と抑圧が行く道ごとに訪れる朝鮮学校を選択するのでしょうか?これに対する答えは、最終的に、朝鮮学校を再構築した1950年代に1世の同胞たちが抱いていた心に戻れば得ることができます。

「二度と私と私たちを奪われたくない」

人が自分の名前と言葉を奪われ、そのため、受けなければならい精神的苦痛はどのような貧困よりも痛いのです。日本植民地時代、他国の地で受けなければならなかった果てしない悲しみを、子、孫に譲りたくなかったからです。


穏やかな朝鮮学校が込められたドキュメンタリー映画「ウリハッキョ」(2006)ⓒモンダンヨンピル

未だに彼らに
そっぽを向いてないか?


朝鮮学校は肖像画をかけている学校です。朝鮮学校は北朝鮮を支持し、ついていく学校です。それは事実です。

また一方、日本でウリマルと文字を学び、自分の根っこをしっかりと教えてくれることができる学校は、朝鮮学校が唯一です。

4つの韓国系の学校の中で、東京韓国学園(主に領事館の子ども、駐在員の子どもが通う学校)は、韓国政府が立てたものだが、残りの3箇所(大阪、京都所在)は、同胞が立てた学校で、日本の教育法上の1条校として文部科学省の学習指導要領に従う義務があります。これらはすべて、高校無償化が適用されている学校です。

しかし、朝鮮学校は「大学入学資格」も「高校授業料無償化」も各種学校寄付免除も、日本政府からの支援金も受けてないながらも「言葉と精神」を守るためにここまで来ました。
在日朝鮮人90パーセント以上が南を故郷に置いた人々です。私が「肖像画」を克服していなくても、彼らに出会えた理由は、もしかしたら、このようなことではないだろうかと思います。

「私たちの父の世代が、また私たちが、これから私たちの次の世代が、ずっと彼らに対してそっぽ向くのではないだろうか?」という申し訳ない気持ちではなかったかと思います。


※私が初めて朝鮮学校に会った2002年とは事情がたくさん変わりました。
高級部と大学を除くすべての朝鮮学校では、現在の肖像画は、職員室のみにかかっており、学校の入学式や卒業式でも、あの頃と異なり、肖像画を見ることができません。ニューカマーと韓国国籍増加、日本永住を目的とした教育内容の変化が主な理由です。


キム・ミョンジュン
劇映画撮影監督だったキム・ミョンジュン監督は、2003年に故チョ・ウンリョン監督と準備していたドキュメンタリー映画「ハナ(一つ)」のために、を通して、在日朝鮮人問題を徹底的に見つめました。
2006年演出ドキュメンタリー「ウリハッキョ」は、韓国社会に在日同胞と朝鮮学校の話としてに大きな反響を呼びました。現在は、「朝鮮学校と共にする人々モンダンヨンピル」事務総長を務め、朝鮮学校と共にする仕事に大きな力を与えています。

集まった後援金は朝鮮学校運営支援金と高校無償化裁判費用、モンダンヨンピル活動を支援するために使用されます。
1万ウォン以上後援してくださった方々には、モンダンヨンピルバッジと朝鮮学校を知ることができるQnA小冊子、モンダンヨンピルが運営するソウル麻浦区カフェ鉛筆1/3飲料券を差し上げます。
3万ウォン以上後援してくださった方々には、モンダンヨンピルバッジとQnA小冊子、鉛筆1/3飲料券にモンダンヨンピルTシャツ(M / L)を一緒にお送りします。
*御礼は、プロジェクト期間終了後、メールで配送先情報を確認し、一括配送します。
byクォン・ヘヒョ



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