モンダンヨンピル広島コンサート前にミョンジュン監督が広島学区ウリハッキョを訪問しました。

かねてから四国ウリハッキョは必ず行かなければと言っていたミョンジュン監督。

その理由が明らかになります。

また、四国ウリハッキョの歴史についても書かれています。

子どもたちの為に流した汗と涙の歴史が。

2回に分けてお届けいたします。


広島学区ウリハッキョ訪問記2_四国朝鮮初中級学校

岡山を出てすぐに向かったところが「四国朝鮮初中級学校」である。 「すぐに」という言葉は、実際にはそれほど適していない。岡山から四国へ行くには一度、海を渡らなければならないからだ。なんと3時間を超す時間をかけ車で移動した。それこそ山超え海を渡り...長い時間運転をすることができなかった私は居眠りしながら、風景見物しながら、いろいろな感慨に浸った。

「ああ!いよいよ四国ウリハッキョに行くことになったんだ。」


写真1 岡山から四国を車で走りながら見た海

ここは私に特別な思い出がある学校だ。時は、10年前にさかのぼる。その際はちょうど映画「ウリハッキョ」を撮影していた時だった。 2004年の冬と記憶している。北海道のチェ・インテ校長(今は茨城朝鮮初中高級学校の校長を務めている。)が家に招待してくれた。韓国で校長宅といえば何か少し豪勢なことを想像しますが - ああ!もちろん、これはあくまで私の考えであるだけで - 私が見た朝鮮学校の校長宅は、それこそ「素朴」以外は言い表せないところだった。もちろん、2004年、当時の北海道の朝鮮学校の校長の家の訪問が初めての経験でしたが、以来、大阪や東京の主要な家も同様だったし、むしろ北海道の校長宅は、それに比べるとまだましな方だった記憶がある。どちらにせよ招待してくださったおかげで貧しいドキュメンタリー監督の胃は肉と果物で久しぶりの幸せにあふれた。食事が終わって一緒に見たドキュメンタリー。校長が

「これは必ず見なければならない。北海道の朝鮮学校だけがウリハッキョではない。遠く四国もここのような大きな島に一つしか無い朝鮮学校だが私たちとは事情が大きく違う」

と言いながら見せてくれたNHKのドキュメンタリーだった。録画したテープを見せたのだ。

校長先生以下、一緒に招待された若い先生たち、そして奥様、子どもと何人で楽しく食事を終えた後だったので我慢したが、そのドキュメンタリーを見て流した涙は、映画「ウリハッキョ」を作りながら、常に大事にしていた「視線」を与えてくれ、ある地域の特別さを越えて、全国の朝鮮学校であれば、すべてを持っている普遍的な性格を探すということに没頭させた。一言でその時見た「四国朝鮮学校の1年」というタイトル(?)のドキュメンタリーが映画「ウリハッキョ」の母胎になったといっても過言ではなかった。

果たしてどうだったのか....

今正確に覚えてはないけど、まず校長の姿だった。非常に小さなスクールバスを運転しながら、初級部低学年の子どもたちに時々学校バスの運転手のおじさんと呼ばれる校長。子どもの登校を手伝った後、授業に入らなければならず、授業が終わればまた子ども下校を支援し、そうするうちにイベントがあると同胞たちに顔見せに行かなければならず、ウリハッキョの境遇を日本の人々に知らせていく講義、ディスカッションなどに参加して、時間があれば学校に戻って来て、学校の隅っこをきれいにし、寮の子ども世話をして...当時、20人足らずの学生は、本当に家族のように仲良く、お兄さん、お姉さんのような先生たちと情報を共有していた。そして卒業式。学校で唯一の卒業をするたった一人の中3の姉が海を越えて遠く広島朝鮮高級学校に進学する。姉と別れる子どもたちの涙、初級部1年生から中級部3年生までの6年間寮生活をしていた姉は、再び広島ウリハッキョ高級部進学し、寮に行く。そのお姉さんがもしそこを卒業し、もし朝鮮大学に進学する場合は、この学生は、初級部1年生(7歳(注;韓国数え年))の時から16年の間お母さんの胸から離れ寮生活をすることになる。



写真2 四国朝鮮学校の子どもたち。この子どもたちの中に寮生がいるかもしれない。


祖国から海を渡って、東京や大阪でもない、他に住む日本人たちも簡単には行きにくい四国という島で、それもたった一つしかない朝鮮学校、その場所にいるたった一人の朝鮮人。この子一人を堂々と在日朝鮮人に育てるための両親、先生方、そして周囲の同胞たちが払ってきた具体的な苦労。想像することも難しかった。しかし、その時のドキュメンタリーを見て流した涙は、その子の卒業がさそったものではない。

「私たちはあまりにも知らなかったんだ、このように60年以上を生きて来たんだ。誰も手伝ってくれない寂しさの中でもこのように守っているのだ。」

恥と罪悪感がまさに涙の正体だったのだ。そして、いつか機会があればその学校を自分の目で直接見たいと思った。そして、いつの間にか10年の歳月が過ぎてしまい、私は映画監督ではなく、モンダンヨンピル事務総長の名で四国ウリハッキョを訪問する。


苦難の学校


今年で69周年を迎える四国ウリハッキョの正式名称「四国朝鮮初中級学校」の名前が示すように、初級生と中級生が共に校舎と運動場を使う学校だ。他のウリハッキョとも変わりない。他のウリハッキョと変わらないのは、解放直後、「国語講習所」を立てながら学校の歴史が始まったことも同じだ。この国語講習所は、松山(学校があるところが四国という島の愛媛県松山市である)の場合、45年11月初旬から同胞個人の家、トンネル工事現場、鉄工所、事務所などで開始された。



写真3 初期の四国朝鮮学校。教室の床の子どもの靴下が印象的だ。背景に見えるの太極旗と北朝鮮の国旗も見ることができる。


こうして始まった講習所はすぐに帰るのだという期待とは違って、韓半島南端の極端な左右イデオロギー対立と日本政府の馬鹿馬鹿しい帰国の条件(帰国時の財産を置いて去れ)のために停滞するようになり、学校はより安定する必要性が生じた。そして、47年7月には、同胞たちは木造の建物50坪、教室2つ、先生2人、学生25人でスタートする「松山朝鮮学校」を設立することになった。そのほかにも松山に1校、新浜市2校を建て、私立学校の認可を48年に受けたという。しかし、私立学校の認可を受けた1年後、49年に日本政府は、朝鮮学校閉鎖令を公布して一方的に学校閉鎖に入る。これは単に学校閉鎖にとどまらず、他の地域の朝鮮語教室(宇和島)まで閉鎖させるに及んだ。この時から、四国朝鮮学校建設の暗黒期、あるいは苦難の時代に入ることになった。同胞たちは、この時期を「移動教室」の時代と呼ぶという。

49年、朝鮮学校閉鎖令以降、韓国戦争が終わって安定期に入ってきた54年まで、学校は、同胞の家、お寺で、場合によっては公立高校の教室を借りて、製材所の倉庫で子どもたちを教えながら、引越しに引越しを重ねた。そのような子どもたちの姿を見ながら、1世の同胞は​​血の涙を流したのであろう。この涙は、自分で土地を買い、木造の建物でも手作り建て堂々とウリハッキョを作る道へと向かわせた。そしてついに64年現在の敷地にウリハッキョを移転し、初級部、中級部が一緒に勉強することができる12個の教室と170坪(17室)の寮を建てた。この時の生徒数は150人(寮生70人)だったという。日本の各地域の朝鮮学校を訪ねてみて、彼らの学校建設の歴史を聞いて読んで見ると感じることがある。


「どうしたらこのように「1世の気持ち」は一途だったのか?」

解放を迎えた同胞たちは、喜びの中で、帰郷できるという確信を持っていた。その200万人の朝鮮人のうち140万人が戻り、何とか故郷で適応して住んでいた。しかし、帰って行った人々の多くが再び日本に渡ってくる。そして、彼らが持ってきた情報は、済州島の荒々しい噂と左右対立の混乱だった。そうだもう少し安定したら帰ろう。そう待って子どもたちを教えながら準備していた時間を裏切るかのように今度は「戦争」が起きたのだ。ここまで来れば帰郷への欲望を放棄するように思えるが、彼らは決してあきらめなかったようだ。祖国が二つに割れたときにも、彼らは「私が住んでいた故郷」に戻るために「ウリマル」を知らなかった子どもたちに「ウリマル」を教えた。すぐに「統一」するのだから。



写真3 四国朝鮮学校の歴史資料集の昔の学校の平面図。よく見ると、仕切り板を二つ置き、その間に黒板、机を置いて勉強しており、右の図では、学校のすぐ前の小さな川には、豚小屋がある。教師は、夜になると寮として使用すると書かれてもいる。


そして、60余年がただ流れてしまった。今「故郷」という言葉は、彼らの子孫、2世、3世たちには帰る場所ではなく、「渡ってきたところ」になってしまった。自分ではなく、おじいさん、おばあさんが住んでいた故郷なのである。半世紀がただ過ぎ、世代を3~4代を超える時間であれば、もう「故郷」という言葉はただ忘れてもいいだろう。しかし、まだ朝鮮学校に通う初級部学生に

「君の故郷はどこ?」

と聞くと

「故郷は慶尚南道ㅇㅇです」、「済州島ㅇㅇです」

という答えが返ってくる。子どもたちはいまだに学校で自分の故郷がどこなのかを学び、故郷の​​言葉を学び、その風習を学ぶ。一度も行ったことがない故郷だが、「コヒャン(故郷)」という言葉で自分のルーツとして覚えているだろう。しかし、子どもの頃、ウリハッキョで親しい先生、友達と一緒に、その「故郷」を習ったので、何だかよくわからないが、同質感を感じ、一緒で幸せだったあの頃を経て、朝鮮学校出身の在日同胞たちに、ウリハッキョこそが、本当の「故郷」に近いイメージではないだろうか。そして、1世の同胞は​​、彼らの知恵の目を通して、すでにこのような未来を見ていたのかもしれないと慎重に推論してみる。学校を建てるために、全ての体と心を捧げた痕跡を探ってみると、このような考えまで考えてしまうということだ。四国ウリハッキョもこのように豚舎との間仕切り教室を経た歳月を、1世、2世の同胞たちのため息と血と汗と愛情で作られたところである。

つづく

モンダンヨンピルコンサートIN広島
「がんばろうや!朝鮮学校!」

チケット大好評発売中!

 



日時:7月4日(金)
   18時30分開演(開場17時30分)

会場:広島アステールプラザ
 〒730-0812 広島県広島市中区加古町4-17

チケット代金:指定席前売り3000円(当日券3500円)
       自由席前売り2000円(当日券2500円)
       高校生以下 1000円

お申込み方法:以下の内容をご記載の上、メール又はFAXでお申込み下さい。

★お名前
★チケット送付先住所
★ご連絡先(電話、メール)
★チケット枚数(指定、自由、高校生以下をご記載ください)
★お振込み金額
★お振込名

FAX 0823-28-2906
メール wornoutpencils2014hiroshima★gmail.com
   (★マークを@に変えて下さい)

※7月1日まで入金が順次確認された方にチケットを郵送いたします。
指定席は申し込み・入金順に良いお席をご用意いたします。
数に限りがありますので予めご了承ください。
必ず申し込みの上ご入金ください。
7月2日以降の申し込み・入金は当日窓口での対応となります。
※3歳以下のお子様の観賞はできません。予約制で託児所を用意しております。
詳しくはメールにてお問合せ下さい。


主催:モンダンヨンピルコンサートIN広島実行委員会
協力:民族教育の未来を考える・ネットワーク広島
   高校無償化裁判広島弁護団