環境論レポート 「現代の環境問題について」
「現代の環境問題について」
「関西国際空港会社では、光熱費節約のため、今年の7月から旅客ターミナルビル(延べ約30万平方メートル)の冷房温度設定を例年の26度から27度に上げたところ、利用客らからの苦情が殺到し、3週間で元に戻した。」これは、エネルギー問題に関して調べている最中に見つけた読売新聞に掲載された記事の一部である。エネルギー節約や、環境保護のために各国でさまざまな話し合いが持たれ、世界規模で対策がとられている中、環境問題に対する私たちの個々の認識が変わらない限り、いくら国家機関が努力したとしても現在の地球環境は改善されないのではないかと考えさせられる瞬間だった。
現在、エネルギーの節約が地球規模で課題となっている。その理由として、化石燃料の埋蔵量の減少、エネルギー生産、消費に伴う環境負荷物質の排出、また地球温暖化による気候変動の防止などがあげられる。過去、利潤第一・快適第一に行動してきたツケが今になって大きな課題として人類に迫ってきているといえる。
実際に環境省のHPに記載されている国内最終消費エネルギーの推移のグラフ(*参考資料)を見ると、1990年以降エネルギー消費量は増え続けている。1990年から比較すると2002年次は、それぞれ、産業の消費エネルギーは1.13倍、家庭での消費エネルギーは1.28倍、運輸によるエネルギー消費は1.19倍、業務その他による消費エネルギーは1.40倍となっている。特に家庭でのエネルギー消費の拡大は目を見張るものがある。産業や運輸による消費エネルギーはハイブリットカーや省エネ家電のように技術の進歩により減っていくと考えられる。しかし、家庭でのエネルギー消費は私たち自身の意識が変化しなければへることはないのである。
ターミナルビル内の温度設定を1度上げることで、年間数千万円の冷房費を節約しようという空港関係者の思惑が外れたのは、利用者の求める「空港のサービス」というものと設定温度とが隔たっていたのではないだろうか。確かに、温度が1度上がると不快に感じるかもしれない。しかし、必要以上の冷房が、空港までの交通機関や滞在場所で使用されていたとしたら、本来は適切である空港内の温度設定も、暑いと感じてしまうのは当然だろう。ところで、人間は、清涼感を感じる方法を、エネルギー消費の拡大に頼ることだけでしか得られないのだろうか。
以前、家族で話していたとき、エアコンがなかった頃はどうやって夏を乗り切っていたのかが話題になった。祖母が、夕涼みのときに「打ち水」をしていたこと、「風鈴」をつるして少しの風でも感じていたこと、暑いときに「熱いお茶」を飲んでいたこと、夜は窓を開け放して「蚊帳」を吊って寝ていたことなどを話してくれた。さらに祖父には、時間によって風の良く通る部屋に移動していたこと、朝顔やへちま等の植物を窓際に植えることで、日差しを避けていたことなどを教えてもらった。
つまり、エアコンがないのだからどうしようもなかったことも確かだが、物理的に空気の温度を下げるだけでなく、肌からもちろん耳からも目からも、舌からさえささやかな涼しさを得る工夫をしか現代人は快適さを直接的な感じ方でしか捉えにくくなっているような気がする。
昨年の夏、米国北東部とカナダ南東部に大停電が起こったとき、ニューヨーク市民の反応は極めて冷静だったと伝えられている。それは、2年前に起こったテロ事件を教訓に、市民が、パニック状態の中で迅速にそして冷静に行動することがいかに大切か学んだからではないだろうか。エネルギー問題にしても、今まで人類がそこかしこで知恵を出し合い工夫してきたことを集積したり、いわゆる先進諸国の対極にある民族の文化から学んだりすることの中から、それをもう一度普遍化していくことによってエネルギーの消費を抑えたり今あるものを無駄なく使う社会が実現するのではないだろうか。
ちょっと考えると、快適さの追求とエネルギー消費の削減は矛盾しているように思えるが、一人ひとりが現在の状況を客観的に、また正確に把握することにより、科学本来の役割が合理性を持って課題解決のヒントを提示してくれる。そのことは、言いかえれば私たち自身が科学を能動的にまた主体的に認識し、それが生活の中で実現されるようになったとき、物がないから我慢するのではなく、生活のスタイルとしての科学が見えてくるのではないだろうか。
環境論、沈黙の春
環境論レポート 課題図書「沈黙の春」
「若鶏も牛も羊も病気で死んだ。そのうち、突然死ぬ人も出てきた。原因はわからない。大人だけでなく、子供も元気よく遊んでいたのに急に気分が悪くなって2~3時間後には冷たくなってしまった。春がきても自然は黙りこくっている。小鳥も歌わず、ミツバチの羽音も聞こえない。」(本文より転記)
レイチェル・カーソン氏は、いつか、春になっても鳥が鳴かず、動物は死に、そして人間も死ねという世界が来ると警鐘している。では、いったい何が原因でそのような世界になってしまうのか。その原因は「人間」である。具体的にいうと「人間の作り出した農薬など化学薬品」である。著書では、様々な化学薬品の影響を具体的なデータを元に述べられている。
例えばDDTという農薬がある。これは1874年にドイツの化学者がはじめて合成したものなのだが、1939年に殺虫効果があることが判明し、昆虫店派疾病の撲滅、また作物の害虫退治に絶大な威力があるともてはやされた。
発見者はノーベル賞までもらっている。DDTがはじめて使用されたのが、戦時中で、兵隊、避難民、捕虜にふりかけられ、シラミ退治に一役買った。このとき大勢の人間にDDTが直接触れたのに害がなかったことが、DDTは人間には無害だという神話を生む。この神話が大きな過ちを生む。確かにDDTは粉末状だと皮膚から体内に侵入しにくい。だが、油に溶かしたDDTは非常に危険だ。そしてDDTは普通油に溶かして使用される。動物実験によるとDDTはわずか5PPMで、肝臓の壊疽、崩壊を引き起こすという。
では、DDTはどのように体内に蓄積されていくのだろう。それは食物や餌による連鎖であると考えられている。例えばムラサキウマゴヤシの畑にDDTをまく。そのムラサキウマゴヤシを鶏にやる。すると、鶏の卵にDDTがあらわれる。7ないし8PPMの残留物の含む秣を、牛に与える。すると約3PPMというDDTがその乳から検出される。さらにその牛乳でバターを作ると、残留DDT65PPMという恐ろしいことになる。このように食物連鎖の中でDDTは濃度を濃くしていき、最終的には人間の体内に取り込まれていく。これはDDTに限ったことではなく、そのほかの化学薬品にも当てはまる。
さらに悪いことに化学薬品の効かない害虫が、現れることがある。これにより化学薬品はより凶悪になっていく。するとまたそれに免疫を持った害虫が現れる。この永遠に終わらないイタチゴッゴによって化学薬品は無尽蔵に凶悪になっていく。
カーソン氏は「薬剤が少しも残留しないような方法で昆虫を駆除する可能性もたくさんある」と指摘している。具体的には害虫の天敵の利用などである。しかし、この方法も自然界のバランスを破壊してしまうなど問題点も多い。解決策は未だ見つかっていないというのが、正直なところである。
