或る日のアウンサン将軍伝 アウンサン・スーチー女史国会議員出馬記念に再掲 | Money-Cruiser

Money-Cruiser

今が踊り場・・・株式投資を中心にFX、N225先物やクレカとかマイルなどもバンバンやっていきます O(^-^)O

「世の中銭や」

ミャンマー(旧ビルマ)のアウンサン・スーチー女史が国会議員に出馬することになった。ミャンマーは実態は軍事政権と言えども、一応民主的選挙を行っている。民主化運動のリーダーであるアウンサン・スーチー女史も一年前に軟禁を解かれ自由の身になっていた。


そのうえに、ここへきてアウンサン・スーチー女史の国会議員への出馬も許可となった。このことで西側諸国はミャンマーへの経済制裁解除に向かっている。来月12月にはアメリカのクリントン国務長官もミャンマー入りする予定だ。アメリカに右ならえで西側諸国と日本はこれからミャンマーに進出開始するだろう。


僕は最後の経済的有望地域としてミャンマーに注目している。もともと仏教国で国民性が温和なので日本企業の進出に向いている。またミャンマー(ビルマ)は日本が独立させたので、ビルマ人の対日感情はよい。


昨年、アウンサン・スーチー女史が軟禁解除になったときに彼女の父であるアウンサン将軍の或る日の決断について物語を書いた。せっかくミャンマーの歴史の1ページについて書いた文章なので消えてしまうのは惜しい気がするので、再掲しておきます。




「或る日のアウンサン将軍伝」


昭和20年3月27日、ビルマ国首都ラングーンはお祭りの日のように華やかだった。日本の支援で独立したビルマ国のビルマ防衛軍がついに国軍として独り立ちし、ビルマ北方から南下してくるイギリス軍を迎え撃つことになったのだ。ラングーンの目抜き通りを堂々とパレードするビルマ防衛軍兵士は3000名。先導するのは大日本帝国陸軍軍楽隊だ。



流れる音楽は日本軍の定番である軍艦マーチ、そして愛国行進曲。通りの両側には日の丸の旗の波、そして出来たばかりの独立ビルマ国旗がはためいている。イギリス植民地時代にはビルマ人には武器が持たされず、インド兵がビルマの治安を維持していた。


日本軍はビルマの青年たちに武器を与え、日本軍の友軍として育ててきた。そして、ついに堂々の出陣式にこぎつけたのである。ビルマ防衛軍の最高司令官はアウンサン将軍。彼はビルマ独立を夢見て日本で軍事教練を受けてビルマに帰国し、反英運動を組織した。



ビルマが昭和18年に独立を果たしたときに、その功績で初代国防大臣に就任していた。日本軍は戦争の最終局面に至り、ビルマ防衛軍との共同作戦でイギリス軍の南下を防ごうとした。日本は、フィリピンやベトナムなどの他の占領地では現地人に武器を持たせてはいない。裏切って日本軍を襲うことを恐れたからだ。



だがビルマ人にだけは違った対応をしていた。ビルマ人は独立をさせてくれた日本に感謝しているから絶対に裏切らないと思っていたのだ。その日、アウンサン将軍の心中は決まっていた。3000人のビルマ防衛軍が首都ラングーンを遠ざかり、日本軍の本隊から離れたとき、日本に宣戦布告をする決意でいたのだ。



日本陸軍軍楽隊を先頭に出陣式を行った日の夜、ビルマ防衛軍は銃口をイギリス軍にではなく、日本軍に向けたのである。その日の昼間、日本軍幹部とラングーン在住日本人婦人会はビルマ防衛軍の幹部のために壮行会を開き、ありったけの料理と日本酒でもてなしていた。



ラングーンのビルマ人市民50万人も歓呼の声でイギリス軍撃滅の出陣を祝っていた。敗色色濃くなっていた昭和20年になっても、一般のビルマ人たちはイギリスをビルマから駆逐してくれた日本軍に好意的だったのである。白人に侵略支配されていたインドネシアとビルマには次のような伝説があった。



いつの日か、東方から白い肌をしたアジア人の王子がやってきて白人を追い出し、自由と繁栄をもたらしてくれる、と。ビルマ人大衆は日本軍を伝説の王子の軍隊と見立て歓迎したのであった。ビルマ防衛軍のラングーン出陣式から遡ること1年前の昭和19年3月のことだ。



日本軍兵士8万名とインド国民軍兵士6千名はインド攻略に向かってラングーンから出陣して行った。これぞ世に名高い負け戦、インパール作戦だ。アウンサン将軍は、インパール作戦で日本軍が壊滅したのを目の当たりにして大日本帝国の滅亡が近いことを読み取った。



インド独立の父、チャンドラボース率いるインド国民軍6000名も日本軍とともにインドに攻め込んでほとんどの兵士が戦死、餓死、病死した。アウンサン将軍は虎の子のビルマ防衛軍をインド国民軍の二の舞にしたくなかったのである。





とは言え、今まで助けてくれた日本に弓引くことは心が痛む。迷いに迷った挙句ではあったが、アウンサン将軍はイギリスに寝返ることを決意した。可哀想だったのは、ビルマ各地に駐屯していた日本軍部隊だった。友軍とばかり思い込んでいたビルマ防衛軍に背中から銃弾を撃ち込まれのだ。



そうでなくても補給も途絶えて息絶え絶えだったビルマの日本軍はビルマ防衛軍の謀反によって見るも無残な総崩れとなった。この日のアウンサン将軍の心境はいかなるものだったのだろうか?きっと心で泣きながら、敗戦間近の日本軍部隊に銃弾を撃ち込んだことだろう。





政治の世界では、負け犬と縁切したアウンサン将軍の行動は合理的といえよう。しかし、筆者は、やはり、裏切りもせずに日本軍とともにインパール戦線でイギリス軍と戦って全滅した6000名のインド国民軍に感動する。アウンサン将軍は、戦後再び植民地ビルマに帰ってきたイギリスと粘り強く交渉してイギリスから独立の約束を取り付ける。



イギリスに寝返り日本と戦った経歴がここで役に立ったのだ。だが・・・恩を仇で返す行為を神は祝福しない。義を捨てた者には不幸が待っている。独立を翌年に控えた昭和22年7月、憲法の草案を考えていたアウンサン将軍は何者かに暗殺されてしまう。享年32才だった。


暗殺者は親日派だったと言われている。また一説には暗殺者の背景にはイギリスがいたとも言われている。坂本龍馬の暗殺と同じで、真相は今も闇の中だ。ミャンマー(旧ビルマ)の民主化の象徴アウンサン・スーチー女史はアウンサン将軍の娘である。昨日、解放されて自由の身となった。



彼女がビルマ人の間で人気があるのは、建国の父アウンサン将軍の娘だからだ。彼女が長い間、軍事政権に監禁されて、つらい人生を送ってきたことと父アウンサン将軍の日本軍への裏切り行為とはどこか目に見えない因縁があるように思えてならない。




                                     或る日のアウンサン将軍伝 完