お家大事 「表裏」つねなし~真田昌幸(1547~1611) | Money-Cruiser

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「世の中銭や」

もともと、真田氏は戦国大名武田氏の家臣だった。武田信玄が村上義清に取られた信濃の戸石城を取りもどした、真田幸隆の活躍ぶりで知られている。


幸隆の3人の男子のうち、長男信綱、次男昌輝の2人が天正3年(1575年)の長篠・設楽原(したらがはら)の戦いで戦死してしまったため、武藤氏を継いでいた三男の昌幸が真田氏をつぐことになった。


昌幸は武田勝頼の家臣として、上野(こうずけ)に兵を進め、同7年には名胡桃(なぐるみ)城を、さらに翌年には沼田城を落とし、沼田城を中心に、領域支配を進めていた。


ところが同10年3月、武田氏が滅亡し、昌幸は武田氏を滅ぼした織田信長についた。しかし、その信長が6月、本能寺の変で殺されてしまい、その後は、北条氏直、そしてすぐ徳川家康と仕える主人を変えているのだ。


政情が安定していなかったからと言えばそうではあるが、昌幸の場合はそれだけではなかった。「誰につくと有利か」を常に考えて行動していたのである。


家康から沼田城の明け渡しを命じられたとき、それを拒否し、なんと、息子の御弁丸(のちの信繁、通称幸村)を上杉景勝のところに人質として出し、上杉景勝についた。


さらに、上杉景勝より豊臣秀吉の方が頼りがいがあると思うと、ひそかに御弁丸を呼び戻し、今度は秀吉のところに送って、秀吉に臣従するという変わり身の早さをみせている。


そうしたこともあって、秀吉自身、上杉景勝宛(あて)の書状の中で、昌幸のことを「表裏(ひょうり)比興(ひきょう)の者」と表現しているくらいである。ただ、この「比興」を、音が同じ「ひきょう」なので、卑怯(ひきょう)者ととらえている向きもあるが、そうではなく、道理にはずれた不都合な行為のことをさしている。


近世的武士道徳のものさしをあてれば、こうした昌幸の生き方は「節操がない」と非難の対象となる。だが、戦国時代にあっては、いかに家を存続させるかが大命題だったので、当然の行為でもあったわけである。


関ヶ原の戦いのとき、本人と、次男信繁が西軍石田三成方に、長男信幸(のち信之)が東軍徳川家康方になったのもその理由からであった。昌幸と信繁が名を残し、信幸が家を残し、親子兄弟で名も家も残す形となった。