山崎の合戦 | Money-Cruiser

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「世の中銭や」

天正十年、六月十三日夕刻、明智光秀と羽柴秀吉の天下を賭けた、山崎の合戦の火蓋が切って落とされた、天王山を巡って攻防が続き、一進一退となるも志気に勝る秀吉軍の前に、明智勢は総崩れとなり光秀も落ちのびる途中、山賊の手に掛かりあえない最期を遂げた。


秀吉と光秀、二人共信長に拾われ大名まで登り詰めた好敵手であり、二人の間にはある種の信頼感が芽生えていた。古参の勝家などに対する敵愾心が、同じ境遇の両者を結び付け、互いに好印象を抱いていた。


本能寺での、光秀謀反を聞いた秀吉はまさか、光秀殿が謀反とは何と早まった事を、、、嘆く秀吉に、黒田官兵衛が進言する。殿、御嘆きは尤でござる。されど此度は、千載一遇の好機、、、直ちに京に引き返し、光秀殿を討って取り、信長公の御無念、晴らすべきが肝要かと。


さすれば、いずれ天下も殿の手に落ちましょう。急がれよ、殿。官兵衛の進言は、秀吉を奮い立たせた。官兵衛、相い分かった、そなたの進言、承知した。決断の早い秀吉は、即座に毛利方と講和を結び兵をまとめ、勇躍京に向かって行った。


一方光秀が最も恐れたのは、信長の盟友徳川家康であった。この律儀な三河者を打ち損じれば、浜松に舞い戻ったのち、大軍を擁して京に攻め上るのは必定。よいか皆の者、彼の御仁だけは打ち洩らすまいぞ。我等に災いをもたらす、最大の者なり、、、光秀が放つ追っ手と、家康の必死の逃亡劇が始まった。


道中伊賀者の手引きなどで、幸運にも浜松に戻った家康であったが、その時には光秀はこの世から姿を消していた。秀吉軍は駆けに駆け抜けた、日に夜を徹しての強行軍で京を目指して行った、いわゆる秀吉の大返しである。街道には、秀吉の大返しを知った百姓達がにぎり飯や篝火を用意し、秀吉軍を助けたのである。
 

百姓大名と呼ばれ、農民に絶大な人気を誇った秀吉だからこそ成し得た大技であった。しかし皮肉な事に、秀吉は天下を取った後農民に過酷な対応を取り続けた。刀狩りや太閤検地、二度と農民の中から自分のような者が出ぬよう、徹底的に絞り上げたのである。これは徳川幕府にも引き継がれ、農民にとって厳しい冬の時が続く事になった、、、


山崎の合戦はあっけない幕切れとなった、両軍の志気の違いは歴然としており、光秀軍は無残な敗北を喫した。片や主君を討った謀反人 一方仇を討つ忠臣 戦う前から、勝負はついていたのかも知れない。


光秀の三日天下、もしこの時光秀が勝利を収めていたら天下はどうなっていただろう・・・明智幕府の誕生、いや光秀に謀反人の汚名は付いて回り、いずれ家康や柴田勝家、前田利家等と対峙し滅び行く運命だったと、思えてならない。。。