私は3人姉妹、真ん中。

妹と私は健康体だが、姉は昔から体が弱く

あっちが痛いこっちが痛いとよく言っていた。

姉も私も結婚し、そのころもよく

膠原病だとか、リウマチだとか言っていた。

難病と診断されたとも言っていたな。

今思えば、それが特発性間質性肺炎だったんだろうと思う。


ちょうど私が子供を産んだ2005年、姉はよく家に来た。自分に子がいなかったので特に初めての甥っ子、かわいかったのだと思う。


そのころ、私は初めての妊娠出産でハイ状態に加えて、かなり神経質になっていた。

病気のせいで咳が出る姉にうつさないで!とひどいことを言った。姉は悲しそうだった。


病気がどんなものか知らなかったということもあるけど、ひどいことを言ったと思う。

姉の病気がどんなものか知ろうとしなかったのは私だ。うつるわけがないのに。

その数年後自分も同じ病気と診断されるわけだから皮肉なことだ。


姉はその後もよくやってきてはこどもをかわいがってくれた。

2009年には2人目の子供も生まれ、今思えば一番幸せな時期だった気がする。

両親、姉、義理の母もみんな元気だった。


ときはながれ、2013年

姉は数年前から体調が悪く、仕事は病気をおして行っていた。咳のせいでよく肋骨が折れたりしていたし、それなのに仕事は残業も遅くまでやっていた。

私たち家族から見れば、あんなにしんどそうなのに…でも仕事に行けているから大丈夫なのかな?

といっしょに住んでいないこともあり、楽観してるところもあった。



しかし、そんな毎日が続くわけもなく

かかりつけのH大で顔色が悪いと言われ、

久々に酸素を測ったら70台だか80台だかの

数値がでたらしい。

いつもと変わらぬ調子の悪さだったので、

姉としてはこのまま会社へと思っていたらしいが、緊急入院となってしまった。

そして、結局そのまま会社は退職となった。

とてもかわいそうだった。


酸素も吸うのを嫌がって拒否し続けていたけど、

この入院から有無を言わせず適用となった。


さて、私は健康診断で胸部のレントゲンで

胸膜肥厚を指摘されて、病院をふたつまわった。

その頃だったか、母も間質性肺炎と診断を受けていたこともあり、私も少し気になってはいた。

しかし、ふたつの病院は気にしなくてよいとのことで、私は気にするのをやめた。まさかな、と思っていた。


2013年、年明けから長く姉はH大に入院していた。

良くもならず、悪くなる一方だと言っていた。

そこで、H大に来ていたお医者さんに

肺移植を勧められ、K大へ話を聞きに行くことになった。

この人はもうそれしかないと、そのお医者さんは

思ったのだろう。


うろ覚えだが、このお医者さんに当時の姉は

ほぼ寝たきりだったので身体障害者手帳の取り方を教えてもらって取得できたと言っていた。

H大はなんも教えてくれなかった。

あの病院であのお医者さんに会わなければ、

姉は間違いなく2014年早々に亡くなっていただろう。


その頃夏だったかな?話を聞きに行ったK大で

D先生からはまだ大丈夫そうだねと

評価入院は先延ばしに。


しかし、そこからの姉の悪化は早く、

12月にはもうかなりヤバイ状態に

K大の方も、まさかそんな早く悪くなると思ってなかったらしく、生体移植を検討し始めた。

その頃はH大からK大に入院も変わっていて

ホッとしたのを覚えている。

ここだったら…姉は死なないかもしれないと思った。



ドナー候補は私と義兄だ。


12月も終わりに近づいた日にドナーにに適しているか、K大に検査を受けに行った。