たおとMondpaco

たおとMondpaco

ゆったりゆうゆうわくわくすぺーす(*^o^*)とTao

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そのひとから自己観照しか教わらなかった。

しかし

それは「「自己観照」しか教わらなかった」のではなく、
自己観照がすべてであり、

自己観照にすべてが含まれていたからである。

なんと私は浅はかで未熟だったのだ。

道しるべそのものから

道しるべに対する自分の側の視点やあり方へ還る

自分の側の見方、感じ方、捉え方、考え方、あり方が

問われていたのだ。

自分自身の覚悟や錬度が試されていたのだ。

自分自身の浅はかさ、自分自身の未熟さゆえの無理解と誤解であったのだ。
 

そして、自身の無理解と誤解は

近視眼的にしかみようとしない姿勢であり、

視点の低さからうまれたものであることも思い知ったのだ。

どんなに価値あることだとしても、どんなに意味あることだとしても、

自分の側に受け取る姿勢がなければ受け取れなかった。

 

逆も真(しん、芯)なり。

 

自分の側に受け取る姿勢があればそれは必ずおとずれる…

すべては選択である。
それは必然である。

そのひとは私にそのひとが道(みち)の途上にあろうとも、

道(たお)とともにあるよう指針という種を植えてくれていたのである。

そのひとも稀有であり、そのひとにめぐりあうのも稀有であり、

そのひとにめぐりあえた「わたし」という存在も稀有である


私はそのひとの何に響いたのだろう…

そのひとの物事に対する誠実さ、真摯さ、真剣さ、正直さ、純真無垢さ、素直さ

そのひとには私が大切にしてきた、大切にしたい、

ほんとうにもとめてきた、もとめていた

誠実さ、真摯さ、真剣さ、正直さ、純真無垢さ、素直さがあったのだ。

そのときの「今この瞬間」に

自分が大切にしてきた、

そして、自分がほんとうにもとめていた性質に響いたのかもしれない。

物事そのものから物事に対する自分の側の感覚、感性に還す

そのひとやそのものの何に響いたのだろう…

他者を自分自身の鏡として受け取っていく

そうしていくと自分自身を知っていくきっかけになるのかもしれない。
そして、それは自分自身に元々備わっている資質や性質に

ふれられるきっかけなのかもしれない。


 

さとり…

さをとり
さ・と・り
あえて自分と他者をわけて、つむいで(むすび)、はなれる?
差異性を統合して離散する?
他者をうつしかがみとし、

他者からの目を神とし、みられている自分をかんじとる?
自己の客観視?
自己観照?

よって自分自身を知る

ほんとうの自分の価値に氣づく

ほんとうの自分へ還る

そして
悟りとは吾が心
わがこころ
自分の本心
自分の本心へ還る

 




さとりそのものからさとりに対する自分の側の姿勢に還る

さとろうと、いたろうとする姿勢そのもの、

さとろうとする旅路そのものに意味があり、

価値があるのかもしれない。

そういう視点やアイデアがみえてきた。

さとりそのものから

さとりに対する自分の側の誠実さや真剣さや真摯さや正直さや純真無垢さや素直さへ還る

さとろうとするその誠実さや真剣さや真摯さや正直さや純真さや素直さがいとおしい。

自分に価値があってもいいし

自分に価値がなくてもいいし

どちらでもいいし

どちらでなくてもいい

生きてることそのもの

生きていること自体

経験していることそのもの

経験していること自体が「…」である。

(「」(カッコ)にはひとりひとりのこたえがはいるのかもしれない。

自分らしいこたえをつくっていくのかもしれない。)

だからこそ、生は甘美なのだ。

ほんとうの自分の価値に氣づいて、今あるもの、今あることをただ受け取る素直さ

素直さへ還る

なんと生は甘美なのか!

だいじだいひ
大慈大悲
Agape
いとおしい
いといとおしい

宇宙の中心で
何もかもガラスばりの状態である
まるはだかの「わたし」

素のままの「わたし」が佇む…



オシャカさまは最後の旅路の果てに何をおもい、何をかんじたのだろう…

自分の本心や自分のほんとうの気持ちや本音をどうしてもわかってほしくて、吐露したとき、いつも自分の本心や自分のほんとうの気持ちや本音をおさえつけられて、否定されて、完全に拒絶されて、いつもなんともいえないどぐどぐとした感覚、情動を覚えてきました。


「私だって、自分の本心や自分のほんとうの気持ちや本音をほんとうは言いたいし、ほんとうはわかってほしいし、ほんとうは受けとめてもらいたい。だけれど、私だって、ほんとうはこうしたいとおもっていることを我慢したり、犠牲にしているのだから、あなただって、我慢すべきだ!
あなたも我慢すべきだ!
あなたも犠牲を払うべきだ!
みんなそうしているんだからあなたもそうすべきだ!
それが大人だ!
みんなそうしているんだから!」
とおさえつけられて、なんともいえない反発や反感を覚えながらも、またか、となんともいえないあきらめと落胆を覚えて…
きっと、そうやっておさえつけてくる人も、そうなんだろうなあああと、おもいながら、その人たちや自分のなかでどんなことが起こっていて、根っこに、どんな思いをしずめているのか、と。

たとえ、内観したところで、自分の思い込みや主観が入り混じっていたとしても、きっと…こんなかんじではと。

自分の本心や自分のほんとうの気持ちや本音や違和感に氣がつきはじめ、魂が目覚め、魂を生きはじめている人を必死におさえつけ、必死につぶそうとしている。

そうしているのも、自分の本心や自分のほんとうの気持ちや本音や違和感に氣がつきはじめ、魂が目覚め、魂を生きはじめている人をゆるせないから。

今までこんなに犠牲を払ってきて、こんなにも我慢してきたのだから、今までこんなに犠牲を払ってきて、こんなにも犠牲を払ってきたのに、そんな自分をゆるせない、そんな自分をゆるしたくないと、何よりも自分の本心や自分のほんとうの気持ちや本音や違和感に氣づきはじめ、魂が目覚め、魂を生きはじめる自分をゆるせないのである。

そして、そういう自分に素直になれない自分、素直になりたくない自分を認めたくない、受けとめたくない、受けいれたくないのである。

自己の重要感を高めようとしている。
「自分には価値がない」
根っこではそう思い込んでいるから。

そして、他人と同じでないと不安である。
そして、「傷つきたくない」
傷つきたくないから、我慢や犠牲を払っても他人と同調しなければならないと思い込んでいる。
自分自身を生ききることを怖れている。
自分自身であることを怖れている。
根っこでは怖れることを怖れている。

そもそも
「ほんとうは変わりたくない」
根っこではそういう思いを抱いている。

自分のなかに
「ほんとうは変わりたくない」
「自分には価値がない」
「傷つきたくない」という思いがあることに気づくことができた。

そして、素直になれない自分、素直になりたくない自分を愛することができた。

自由に生きている人にとって、我慢や自己犠牲からほんとうにほど遠い生き方をしていることに氣づくことができた。
自由に生きている人は自分の人生を決して我慢して、犠牲を払ってとか、これをするためにこうしなければならない、こうすべきだ、こうするしかないと自分が自分に取引しない生き方を素直に心がけている。ただ自分自身に素直で、ただ誠実に実践している人たちなのかもしれない。

 

岐路に立たされたとき、とてもきつくしんどいときに、自分の本心や自分のほんとうの気持ちや本音をどうしてもわかってほしくて、吐露したとき、いつも自分の本心や自分のほんとうの気持ちや本音をおさえつけられて、否定されて、完全に拒絶されて、いつもなんともいえないどぐどぐとした感覚、情動を覚えてきました。

自分の本心や自分のほんとうの気持ちや本音を受けとめてくれる人がいなくて苦しんできました。そして、物理的に、私の身のまわりにメンターになってくれる人がいないことで悩んできました。

もっと意識レベルをあげて自由になりたいのですが、このままだと、よくて維持できるか、朱に染まって、意識レベルを下げつづけてしまうのがとても怖いです。

もっと意識レベルをあげて自由になりたい。だから、物理的にも、メンターになってくれる人に縁したいです。本音でつきあえる人に縁したいです。


違和感を覚え、魂が目覚めているのをかんじました。


「泣き言なんかいってられないんだ!
うぉぉぉぉおおおお
ひとりでもリーダーはリーダ!
ひとりになってもリーダーはリーダーなんだ!
オレにはそうやって命がけで生きている友や仲間がいるんだ!
どんなに遠くにいたって、とともにいるんだ!
だから泣き言なんかいってられないんだ!
オレはひとりじゃない!
だからひとりでもリーダーなんだって自ら立つんだ!
自分の人生をつくっていくんだ!
人生に意味を問うんじゃないんだ!
人生の意味にこたえていくんだ!
こたえをつくっていくんだ!」


私はどうしたらいいのだろうか?

(問いの視点を転換してみた)

私はほんとうは何がしたいのだろうか…


いつものことながらとても読みづらいし、わかりづらいと思います。

今の素のままを綴りました。そして、突然、自分の視点と他者の視点が急に入れかわっているところもあったりして、綴ったことは決して時系列ではないです。わきあがってきたあつい感覚を大切にしたいという思いとせめぎあいながら、前後の流れがどうしても流れていかないところは、仕方なく削除したり、何回も順序をかえたりしました。

しかし、それでもとても読みづらく、わかりづらいと察します。

「本質的なことは伝えられない」のかもしれません。

しかし、「本質的なことは伝えられない」ということでおしまではないということです。

「壁にぶつかったとき、壁は壁ではない。壁は壁のままではない。」

その先にあるものかもしれないもの、振り返ってみたらあるかもしれないものをかんじる、つかみとれることでもあるということなのです。

本質的なことは自分自身でかんじとる、本質的なことは自分自身でつかみとれるからです。

だからこそ、どうか、自分自身で感じ取ることを大切にしてあげてください。そして、自分が感じ取った感覚や感性を大切にしてあげてください。

しかし、それでもことばで伝えることの大切さも実感しています。

なぜならば、私の身のまわりで起きていることを感じていると、これほどたくさんの伝えるための道具や仕組みがあるのに思い込みを強めるかたちで理解をし、それでいて、うざい、めんどくさい、あつくるしいといって、肝心なことをことばで伝えない、ことば足らず、自分がこうしたいとおもっていることをことばにして伝えて、ことばを尽くすことなく、ますます誤解が誤解を生むような状況はますます多くなってきていると実感するからです。

そして、事なかれや足りないことで失敗したり、間違ったりしたりすることよりも、あまりあって、思いあまってやってしまった失敗や間違いのほうがすがすがしいと感じてしまう、おもっているのはボクだけなのでしょうか。とてもつよい違和感を覚えている今日この頃です。


Mondpaco わかちあい 奉仕 二極統合


そして
カタカムナウタヒを観じながら…


ことのはに ことたまのせて ひひきあい

そらにもろけせ やまとのかかみ

今、考えていることは

じぶんを軽やかにする?

じぶんを重々しくする?

 

もしも、ぼくのように

正しいこたえにがんじがらめになっているのなら

「正しさ」で、じぶんでじぶんをしばりつけているのなら

 

その「正しさ」は

じぶんを軽やかにする?

じぶんを重々しくする?

 

「自分なりのこたえをつくっていく」

 

ほんのすこしでもそんな可能性に気づけたのなら

ほんのすこしでもそんな視点に還れたら

 

そのこたえは

じぶんを軽やかにするこたえ?

じぶんを重々しくするこたえ?

 

その考えは

じぶんを軽やかにする考え?

じぶんを重々しくする考え?

 

気休めでもいいから

ほんのすこしでも

こころに軽やかさを取り戻せたらいいな。

 

あなたのこころにもかろやかな風が吹くといいなっ。