そのひとから自己観照しか教わらなかった。
しかし
それは「「自己観照」しか教わらなかった」のではなく、
自己観照がすべてであり、
自己観照にすべてが含まれていたからである。
なんと私は浅はかで未熟だったのだ。
道しるべそのものから
道しるべに対する自分の側の視点やあり方へ還る
自分の側の見方、感じ方、捉え方、考え方、あり方が
問われていたのだ。
自分自身の覚悟や錬度が試されていたのだ。
自分自身の浅はかさ、自分自身の未熟さゆえの無理解と誤解であったのだ。
そして、自身の無理解と誤解は
近視眼的にしかみようとしない姿勢であり、
視点の低さからうまれたものであることも思い知ったのだ。
どんなに価値あることだとしても、どんなに意味あることだとしても、
自分の側に受け取る姿勢がなければ受け取れなかった。
逆も真(しん、芯)なり。
自分の側に受け取る姿勢があればそれは必ずおとずれる…
すべては選択である。
それは必然である。
そのひとは私にそのひとが道(みち)の途上にあろうとも、
道(たお)とともにあるよう指針という種を植えてくれていたのである。
そのひとも稀有であり、そのひとにめぐりあうのも稀有であり、
そのひとにめぐりあえた「わたし」という存在も稀有である
私はそのひとの何に響いたのだろう…
そのひとの物事に対する誠実さ、真摯さ、真剣さ、正直さ、純真無垢さ、素直さ
そのひとには私が大切にしてきた、大切にしたい、
ほんとうにもとめてきた、もとめていた
誠実さ、真摯さ、真剣さ、正直さ、純真無垢さ、素直さがあったのだ。
そのときの「今この瞬間」に
自分が大切にしてきた、
そして、自分がほんとうにもとめていた性質に響いたのかもしれない。
物事そのものから物事に対する自分の側の感覚、感性に還す
そのひとやそのものの何に響いたのだろう…
他者を自分自身の鏡として受け取っていく
そうしていくと自分自身を知っていくきっかけになるのかもしれない。
そして、それは自分自身に元々備わっている資質や性質に
ふれられるきっかけなのかもしれない。
…
さとり…
さをとり
さ・と・り
あえて自分と他者をわけて、つむいで(むすび)、はなれる?
差異性を統合して離散する?
他者をうつしかがみとし、
他者からの目を神とし、みられている自分をかんじとる?
自己の客観視?
自己観照?
よって自分自身を知る
ほんとうの自分の価値に氣づく
ほんとうの自分へ還る
そして
悟りとは吾が心
わがこころ
自分の本心
自分の本心へ還る
…
さとりそのものからさとりに対する自分の側の姿勢に還る
さとろうと、いたろうとする姿勢そのもの、
さとろうとする旅路そのものに意味があり、
価値があるのかもしれない。
そういう視点やアイデアがみえてきた。
さとりそのものから
さとりに対する自分の側の誠実さや真剣さや真摯さや正直さや純真無垢さや素直さへ還る
さとろうとするその誠実さや真剣さや真摯さや正直さや純真さや素直さがいとおしい。
自分に価値があってもいいし
自分に価値がなくてもいいし
どちらでもいいし
どちらでなくてもいい
生きてることそのもの
生きていること自体
経験していることそのもの
経験していること自体が「…」である。
(「」(カッコ)にはひとりひとりのこたえがはいるのかもしれない。
自分らしいこたえをつくっていくのかもしれない。)
だからこそ、生は甘美なのだ。
ほんとうの自分の価値に氣づいて、今あるもの、今あることをただ受け取る素直さ
素直さへ還る
なんと生は甘美なのか!
だいじだいひ
大慈大悲
Agape
いとおしい
いといとおしい
宇宙の中心で
何もかもガラスばりの状態である
まるはだかの「わたし」
素のままの「わたし」が佇む…
オシャカさまは最後の旅路の果てに何をおもい、何をかんじたのだろう…
