前回、メッセージを綴ってから妙にざわついてしまって、しばらくしてからもうあのときの「今この瞬間」はあのときにしか表現できないことなのだと。もっと大切にしないと。なんだかわからないけれどいとおしさを覚えてしまった。
それが自分のなかのどくどくしたものであろうと、ざわざわしたものであろうと、やりきれない、どうしようもない憤りがわきあがってきたものであろうと、自分とともにいてもいいんじゃないかって。
どんなに打ち消そうとしたって、嫌なことだってあるし、避けたいことだってある。どうして熱して熱くなってしまった鍋を無理やり冷やさなければならないのか、ふと違和感を覚えてしまった。
こんなつよい情動や衝動はそのときにしか表現できないし、あとから思い出して表現したとしても、きっとそのときの情動や衝動そのものではないだろう…
そうおもったのだ。
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今しか表現できないことが生きづらいのならば生きづらさに素直でいる。
降り止まない雨はないのだから…
すべてが無駄ではなかったのだ。
すべてが「今この瞬間」にあったのだ。
つむがれていた。
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ネガティブさの根っこが苦しみならばその苦しみを徹底化してみよう。
おのれだけでなく社会、人類、地球、宇宙…にまで徹底化してみよう。
「一切皆苦」
苦そのものから苦に対する自分の側のありようへ還る
苦を枠や不完全さへ置き換えてみるならば、この三次元のシステムに身を置くことで、枠や不完全さをも経験するためにこの地球にうまれてきたのではなかったのか?
しかし
ただ、それだけでもないはず…
枠や不完全さがあるからこそ生を観ずることができる。
きっと
生の甘美さがあるのである。
不完全、それでいて完全なのである。
生は甘美である…
離散性。
一見バラバラにみえるものがつむがれていた
離散性。まだかたちになっていないところにあるまだかたちになっていないことを創造し目に見える形へ表現する、一見バラバラのようにみえるもの、一見バラバラにあるものを紡いでいって、ちがっていていっしょ、とともにある…
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『バケモノの子』のなかで「意味は自分でみつけろ!」と。
それがぼくのなかで剣のように胸のなかに生きつづけているんだ。
なにかおおいなるものにつつまれている…
妙な安心感につつまれていて
ただいま。
おかえり。って
妙ななつかしさを覚えてしまって。
ほんとうは意味があるとかないとかどうでもよくて。
意味は自分でみつけるもの。自分でつくるもの。自分の人生はみずからつくっていくものであり、自分自身を表現することであると。だからこそ私たちは決めること、願うことができるのである。
私たちには制限にこだわらない自由さがあるのだから…
過去という「今」も未来という「今」も大切にして、現在という「今」「この瞬間」を大切に生きていくことだってできるのである。
すべてが「今この瞬間」にあるのである。
すべては選択である。
それは必然である。
すべては必然である。
それは選択である。
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「生は甘美である…
まだかたちになっていないところにあるまだかたちになっていないことを創造し目に見える形へ表現する、一見バラバラのようにみえるもの、一見バラバラにあるものを紡いでいって、ちがっていていっしょ、とともにある…」ことをわかちあう。
それがぼくの意味である。
そして
二極統合
それが僕の意図である。
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それが前回、前々回、そして、このメッセージを綴った意味なのかもしれない。
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正直、
今、どんなに考えても、今の自分には何をしたらいいのかわからなくなってしまった。
…けれども、
今の自分にできることを考えたとき、
自分自身を表現することであり、このメッセージを伝えることであった。
そして
このメッセージを伝えることがぼくにとっての小さな一歩となった。
このメッセージを伝えたことで、
これでやっと、等身大の自分のままで小さな一歩が踏み出せた。
ありがとう。
とある図書館にて。