新田義興ゆかりの「女塚神社」

 新田義興を祀った「新田神社」に続く第二弾です。

 今回ご紹介する神社は、新田義興の侍女、少将局が祀られている「女塚神社」です。少し艶っぽい雰囲気がします。

 新田義興は、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ新田義貞の次男で、南朝の総大将で無類の勇将だったようです。

 

 父親の新田義貞は、ご存知の通り、鎌倉幕府を滅亡に追い込み、後醍醐天皇の建武新政樹立の立役者の一人だったわけですが、同じく、鎌倉幕府を倒した足利尊氏と対立し、奮戦したものの、越前藤島で戦死、兄の義顕も亡くします。

 

 その後、義興は、南朝の総大将として、弟の義宗や従兄弟の脇屋義治ら新田一族を率いて鎌倉幕府の奪還を目指し、武蔵野各地で転戦します。

 

 新田義興は足利尊氏が亡くなった半年後、好機と捉え、鎌倉奪還のために挙兵をこころみます。

 

 これに対し、足利尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と、関東管領の畠山国清は、義興の鎌倉進出を畏れ、新田の元家臣で、足利側に寝返った竹沢左右京亮(うきょうのすけ)を使い、再び、新田側に寝返ったと見せかけ義興に近づけるのです。しかし、容易には信用は取り戻せません。

 

 そこで、京都から選りすぐりの美女を義興に与え、巧に取り込み、謀殺の機会を伺っていました。

 

 下の写真は女塚神社の社殿です。

 

 竹沢左右京亮が義興に取り入るために与えた美女が「少将局」です。京都出身の高級女官だったとされていて、義興はとても気に入り侍女にしたと伝えられています。

 

 こうして少将局を与えた竹沢左右京亮は義興に取り入ることに成功することになります。

 

 少将局も義興謀殺の企みを承知の上で近づいたわけですが、次第に義興に心惹かれていくわけです。

 

 いよいよ時期到来と見た竹沢左右京亮は、自宅に招いて謀殺する企てをするのですが、少将局が竹沢左右京亮の招きに応じないようにと伝えるのです。

 

 少将局の知らせで、義興は窮地を脱したわけですが、この事が露見して少将局は竹沢左右京亮らによって殺害されてしまうのです。

 

 殺害された少将局の遺骸は打ち捨てられたままでしたが、村人が憐れんで塚を建てて祀った塚が「女塚」であると言われています。

 

 社殿の横に円墳らしき形が見られます。ここが少将局の墳墓出会ったとも伝わっています。(諸説あるようです)

 

 奥に少将局を祀った祠があります。

女塚神社 (大田区西蒲田6-22-1) 蒲田八幡神社の兼務社となっています。蒲田八幡神社のホームページは、

https://www.kamatahachiman.org/

 

今回は、文字と写真をひと回り大きくしてみました。ゴールデンウィークですが、じっと辛抱ですかね。くれぐれもご自愛ください。

次回も新田義興ゆかりの史跡を歩きます。