「中原街道を歩く」の2日目は、東急東横線の多摩川駅から相模鉄道本線の三ツ境駅まで歩きました。今回は、その第1弾です。
マップはこちらです。
東急東横線の多摩川駅から丸子橋に向かう途中に、「多摩川浅間神社」があります。
多摩川岸の丘の上にあるこの神社は、今から800年前の創建と伝えられています。
鎌倉時代の文治年間(1185〜1190年)に源頼朝が豊島郡滝野川松崎に出陣した際に、夫の身の案じた妻政子が浅間神社に手を合わせたという言い伝えがあります。
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多摩川浅間神社の下には、「多摩川治水記念碑」が建っています。
内務省が昭和11年(1936年)、多摩川の治水工事の竣工を記念して建てたものです。
工事は、大正7年(1918年)羽田の河口部から開始し、昭和9年(1934年)世田谷区 砧までの間が完成しました。
以前、このブログでも紹介しましたが、神奈川県庁に民衆が大挙陳情した「アミガサ事件」がきっかけとなり、多摩川治水工事が行われました。
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初代の丸子橋は1934年(昭和9年)に建設され、その後、2000年(平成12年)に現在の橋に架け替えられています。
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初代の丸子橋の「親柱」が大田区側に置かれています。
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川崎市側の橋の下には、「丸子の渡船場跡」の碑が建てられています。丸子の渡しでは乗客を運ぶことはもちろん、古くは牛、馬、荷車や人力車なども運搬されました。東京(江戸)から肥料となる糞尿を運び、川崎からは梨や桃、野菜などが東京(江戸)の市場に運ばれていたと言われています。
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川崎市中原区の「中原街道」です。この辺りには、初代将軍徳川家康は「鷹狩り」を好んだことからいくつか宿泊所(御殿)を作らせています。
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この家は川崎市中原区小杉陣屋町に所在した大地主の長屋門です。この場所に建てられていた主屋は、川崎市多摩区にある「日本民家園」に移築されています。
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日本民家園に移築された「原家」の主屋の建物は22年を要し、驚くほど慎重に家づくりが行われました。明治44年に上棟されています。
主屋はケヤキ材をふんだんに使用した木造・二階建て・桟瓦葺き・延べ117坪(387㎡)のとても大きな住宅です。
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しばらく歩くと、「石橋醤油店」という看板が見えてきます。
この家は、明治3年から農業を兼業しながら醤油を作り、大正2年(1923年)から専業となり、キッコー「文山」というラベルを貼って昭和23年(1951年)まで製造していました。

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今でも、石橋醤油の工場(昭和8年に改築された当時の建物)の一部が残されています。
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初代将軍
徳川家康は「鷹狩り」を好んだことからいくつか宿泊所(御殿)を作らせていますが、そのひとつ「小杉御殿」がこの付近にありました。この史跡「徳川将軍小杉御殿跡」のある辺りの町名は「小杉御殿町」と名付けられています。現在、道路の拡幅工事が行われていました。
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「西明寺」は、小杉御殿の建設とほぼ同時期に有馬村(現在の神奈川県高座郡)から現在地に移された寺院で、徳川家康が鷹狩りの休憩に滞在したと伝えられています。
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中原街道と府中街道が交差する場所に「二ヶ領用水」があります。大田区にあった六郷用水と同様、多摩川から取水したもので、この用水によって、この辺りの稲作の生産は大きく増加することになります。
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米の増産に取り組んでいた家康は、江戸近郊の各地で新田開発を計画します。多摩川からの農業用用水路の敷設を進言し、用水奉行を任されたのが小泉次大夫でした。
次大夫によって川崎市内に敷設されたのが二ヶ領用水であり、その拠点となったのが、この場所にあった「代官陣屋」す。今は、神社の祠が建っているだけです。
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「泉澤寺」は、現在の世田谷方面に勢力を有した戦国時代の豪族・吉良氏の菩提所として、延徳3年(1491)に多摩郡烏山(現在の世田谷区烏山)に創建された浄土宗の寺院です。
天文19年(1550)に諸堂が焼失したため、吉良頼康が現在の上小田中の地に場所を移し再興しました。
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門前を通る中原街道は、戦国時代から近世前期にかけ、江戸と相模方面を結ぶ幹線で、近くには小杉御殿があるため、徳川幕府は、泉澤寺へ朱印20石を与え、
保護しています。
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中原街道には、多くの地蔵尊や馬頭観音、庚申塔が残されています。いずれも当時の地域性や民間信仰を今に伝える貴重なものですね。
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(続く)