重複して掲載してしまい、ご迷惑をおかけしました。
「大正3年(1914年)、御幸村村会議員の秋元喜四郎は、多摩川の水害に見舞われていた御幸村の農民を救うため、自らがリーダーとなり、近隣農民500人とともに揃いの編み笠を被り、神奈川県庁に大挙押しかけました。後に語られる「アミガサ事件」です。この事件を契機に有吉忠一神奈川県知事は、沿道のかさ上げという形で多摩川に堤防を築きます。」というところまで前回ご紹介しました。
今回は、その続きです。
江戸時代から続いていた多摩川の砂利採掘は、さらにエスカレートし、多摩川沿岸は下の写真のように地形を変貌していきます。深いところは、6メートルも掘られていたそうです。
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大正3年(1914年)のアミガサ事件の6年前、1908年には多摩川の砂利の採掘とその鉄道貨物輸送のため、今日の「東急玉川線」が開業しています。青梅線や相模鉄道など首都圏の鉄道網の発達は、河川敷で採掘した砂利を大都市中心部に輸送することを目的に開業していきます。
そして、不況や水害で立ち行かなくなった農民たちの中には、安い賃金で多摩川の砂利採掘を行う者も現れます。こうした農民たちの苦しみを、川崎郷土・市民劇「南武線誕生物語」では強調されていました。
下の写真は、多摩川の砂利を箱ぶ当時の鉄道です。新しい都市を造るのに砂利は欠かせない物資でした。
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アミガサ事件をきっかけに、多摩川の堤防工事が始まると、秋元喜四郎は、多摩川沿岸の農民の救済事業として、沿岸に砂利運搬を主体とした鉄道建設をつくることを願い、地元の有力者である13人の発起人を立てて鉄道院に請願を行います。その願いが叶って大正9年、「南武鉄道株式会社」を発足させることになります。
しかし、川崎から立川に至る壮大な秋元喜四郎の夢も、シベリア出兵後の不況によって資金(株)が集まらず、鉄道事業も頓挫寸前の危機に陥っていきました。
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そこに登場するのが、上の銅像の主「浅野総一郎」です。幾多の事業に手を出しては失敗し、再び事業を起こすことから「九転十起の男」と言われていた浅野総一郎は、渋沢栄一に目をかけられていました。そして、明治政府から払い下げられたセメント事業を深川清住町で「浅野セメント」(下の写真)という名で開業します。
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同時に、金融界の安田善次郎の協力を得た浅野は、川崎・鶴見間に埋め立て事業を進めていきました。
公害問題で立ち退きを余儀なくされた深川のセメント工場は、この臨海部で開業するようになります。
開業当時、秩父山中で採掘する石灰石を青梅を経て、立川へ、そこから東京を迂回して川崎湾岸にあるセメント工場に運んでいた経路を、立川から南武鉄道で川崎に輸送することで大幅なコストカットが可能となるという目算から、浅野は、資金不足で頓挫寸前となっていた秋元喜四郎らの「南武鉄道株式会社」に対し、資金協力を提案したのです。
セメント工場が川崎の臨海部に移設されることで湾岸の漁場を奪われる農民たちは猛反対。同時に、セメント工場からの石灰石の粉塵による公害問題に対して、農民の先頭に立って反対行動をとっていた秋元にとっても、利益を生み出す鉄道を優先にすべきか、公害反対の農民の立場に立つべきかの苦渋の判断をせざるを得ませんでした。

市民劇「南武線誕生物語」の最終章で、秋元と浅野は、互いに手を握り合い、鉄道建設の道が開かれていくことになります。そして昭和5年4月、南武鉄道は川崎から立川間で開通します。
その開通式典の場で秋山は倒れます。そして、同じ年に浅野もロンドンで倒れ、11月に他界します。二人の夢と周囲の期待で実現した南武鉄道は、埋立地に誕生した工場への人員輸送を主とする「南武線」として今日に繋がっています。下の車両は、当初の南武線の「73系」です。
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この後は、少しこぼれ話となります。
明治30年から昭和8年まで、目黒に「目黒競馬場」があったのをご存知でしょうか。近くには、目黒雅叙園や目黒不動尊があります。
都市化により住宅街がせまり、競馬場の運営が困難になったため移設を余儀なくされました。現在でも、その名残として、下目黒4丁目には、競馬場のコーナーと分かるカーブした道路が点在しています。「元競馬場前」というバス停がある場所は、当時、観覧スタンドが置かれていた場所だそうです。
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かつての場所には、「目黒競馬場跡」の台座に馬のブロンズ像の記念碑が建てられています。

浅野たちは、南武線を敷設する際に、南武線沿線に娯楽施設の誘致も検討していたようです。実際、「目黒競馬場」の移設にあたっては、府中町が誘致し、南武線の「府中本町」が競馬場の玄関となるのです。その競馬場こそ、現在の「東京競馬場」です。
目黒競馬場が府中に移転されることが決まり、目黒競馬場では、「目黒」の名を長く後世に伝えるため、4歳(現3歳)以上の馬によるハンディキャップ競争として「目黒記念」が創設されました。中央競馬の重賞レースとしても最古とものとされています。
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東京競馬場の近くに、多摩川競艇場があります。この多摩川競艇場や、下の写真にある川崎市の「等々力緑地の釣り公園の池」も、かつて「多摩川砂利採掘」でできた採掘跡を活用して造られたものです。
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立川と川崎を結ぶ南武線は、川崎駅の手前の尻手駅で「南武支線」の起点駅となり、浜川崎駅まで繋いでいます。そこから、沿岸部の工場に沿って鶴見線が伸びています。
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そして、南武線は、今年90周年を迎えました。
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