多摩川の度重なる大洪水に対し、大正3年(1914年)9月16日未明、アミガサを付けた農民500人は、神奈川県知事に対し多摩川築堤の「大挙陳情」を決行します。
その経過は、アミガサ事件の集結場所「八幡大神」(南武線平間駅から5分ほど)境内の高札(解説板)に詳しく書かれています。
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(解説板から)
「1914年(大正3年)9月16日のこと、野良着姿の一団が道を急いだ。麦飯のむすびを包んだ風呂敷をはすに背負い、全員がアミガサを着けていた。出水の鶴見川を必死に渡り、厳しい警察の警戒線にもたじろかず、ひたすら県庁を目指した。
当時はまだ、大勢で行動することは許されなかったため、一行は県庁近くの横浜公園に集められてしまい、目指す県庁には達することはできず、各村の代表だけが知事との面会を許された。代表らは、水害の苦難を口々に訴え、築堤の早期施行を強く嘆願した。
しかし、県知事は、「大挙陳情の不穏当」を説諭するだけで、何ら具体的回答を示さなかった。それを聞いた一行は、知事の誠意のない態度に憤慨したが、リーダーたちの説得になだめられ、帰村することにした。
その3日後、多摩川築堤期成同盟会が結成され、さらに築堤運動が活発に推し進められることになった。それは、やがて、道路かさ上げの代用堤防となった有吉堤築造を実現し、ついには国の本格的築堤工事を導いたのだ。以後、多摩川からは、1974年の狛江水害を除いて大水害は姿を消し、沿岸住民の悲願は、ここに達成された。」

「八幡大神」から多摩川と平行している道路をしばらく歩くと、下の写真にある「中丸子児童公園」に着きます。道路から公園を見るといくらか高低差が見られます。これが、解説板にある「道路をかさ上げした代用堤防となった『有吉堤』」なのです。
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公園には、「有吉堤竣工百年の碑」が建てられています。公園側から見ても、道路がかさ上げされているのがわかります。有吉堤は約2.2キロにわたって造られています。そして、代用堤防には、建設に尽力した当時の有吉忠一県知事の名前が付けられているのです。
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有吉堤が竣工したのは、大正5年(1916年)。竣工から100周年に当たる平成28年(2016年)10月30日に遺構が残るこの地に建立されました。
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アミガサ事件当時の石原県知事は代表者だけに会い、大勢で押しかけたことに対して説諭する有様でした。やがて、有吉忠一県知事に代わると、すぐに調査が行われ、「道路改修に名を借りた代用堤防」を県費負担で工事着工に踏み切ります。対岸の東京都側住民は、水害が激しくなることを危惧し、築堤反対運動を起こします。その結果、国(内務省)は工事差し止め命令を出したのです。
ところが、有吉県知事は、命令をあえて無視し、「堤防の新設」に当たらない沿道のかさ上げによる代用堤防の工事という主張をし、ついに完成させたのです。
先に出された国の中止命令を無視したことで、後に有吉県知事は始末書を書かされ、譴責処分を受けました。後年、この処分を「県民のための公利を計った」のだから、「名誉な譴責だ」と有吉は回顧しています。
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この地図は、明治39年測図に赤線で有吉堤を示したものです。
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この地図は、現在の地図上の有吉堤です。
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この有吉県知事の偉業は各地に飛び火し、「多摩川改修請願運動」となり、「多摩川改修工事」へと結びついていきました。その後、二子玉川付近から東京湾河口までの22キロにわたる治水工事が行われることになります。
東急東横線「多摩川」駅を降り、多摩川方面に向かうと「多摩川浅間神社」があります。神社傍には「多摩川治水記念碑」が建てられています。
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有吉神奈川県知事はその後、任期を終え、兵庫県知事、朝鮮総督府正務総監を経て、大正14年(1925年)に横浜市第10代市長に就任します。
大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災は、横浜港にも壊滅的な被害をもたらしましたが、横浜市長に就任した有吉忠一市長によって復興事業が強力に推し進められたと言われています。道路、河川運河、橋梁、病院、学校などの整備に加え、「山下公園」「神奈川公園」「野毛山公園」「横浜公園」の4公園はこの時に整備されています。
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次回は、再び「秋元喜四郎」さんにご登場願うことにいたします。ようやく、次回、「南武線」の名前が出てくる予定です。