元弘3年(1333年)5月8日に上野国新田(群馬県)の生品神社で挙兵し、小手指の戦い、久米川の戦い、分倍河原・関戸の戦いを経て、州崎の戦いで勝利した新田義貞は、5月18日から21日にかけて、化粧坂切通し、巨福呂坂切通し、極楽寺坂切通しの3方向から鎌倉中心部に攻め込みます。
そして、多くの者が命を落とす壮絶な合戦が繰り広げられました。しかし、新田軍は突破することができませんでした。
イメージ 1

3つ切通しから攻め込みながら、防衛線を突破できなかった新田義貞は主要な軍勢を率いて稲村ヶ崎に移動します。
しかし、稲村ヶ崎の狭い砂浜には逆茂木が並び、軍船も矢を持って待ち構えています。
イメージ 2

新田義貞が黄金造りの太刀を海に投じて龍神に祈願すると、潮が引いて軍勢が通れるだけの干潟が現れたと言われています。稲村ヶ崎には、当時の様子を伝える石碑がいくつも建ち並んでいます。
イメージ 3

5月22日未明、稲村ヶ崎沿岸にできた干潟を6万余の軍勢が一気に駆け抜け、鎌倉に攻め込みます。そして、化粧坂切通し、巨福呂坂切通し、極楽寺坂切通しで防御していた幕府軍を後方から攻め込み、ついに防衛線は崩壊します。
イメージ 4

イメージ 5

イメージ 7

稲村ヶ崎の上に上がると、東屋が置かれた公園が広がっています。この場所には太平洋戦争当時、高射砲台が設置されていたようです。
イメージ 8

公園からは遥か彼方になった江ノ島を眺めることができます。大気の状態が良い日は富士山も見ることができます。
イメージ 9

鎌倉の中心部に攻め込んだ新田軍は家々に火を放ちます。
火はたちまち北条高時の屋敷にも迫り、高時らは先祖代々の菩提寺である東勝寺へと移ることになります。
イメージ 6

東勝寺跡に向かう途中に「東勝寺橋」があります。
イメージ 10

東勝寺橋は、大正13年(1924年)に建造されたアーチ構造の橋で、その美しさから「かまくら景観百選」にも選ばれています。
イメージ 11

橋の袂から下に降りることができます。
イメージ 12

橋を渡り、しばらく坂を上がると北条泰時が建立した「東勝寺」跡の解説版が見えてきます。
元弘3年(1333年)5月22日、この地で北条一族や家臣ら870人余りは、次々に腹を切り、あるいは刺し違えて自決しました。やがて、炎が東勝寺を包み、鎌倉幕府の歴史は終わりを告げることとなります。
イメージ 13

東勝寺跡を通り、先にある山の斜面下に東勝寺跡碑が建てられています。
イメージ 14

石碑の近くには、北条一族が自刃した「腹切りやぐら」と呼ばれる洞窟があり、北条一族が祀られています。
イメージ 15

鎌倉幕府滅亡の2年後の1335年(建武2年)、北条高時の霊をなぐさめるため、後醍醐天皇が足利尊氏に命じ、北条執権邸跡に建立したのが、宝戒寺です。
イメージ 16

門前には、北条邸跡を示す石碑が建っています。
イメージ 17

宝戒寺本堂
イメージ 18
3回にわたり、新田義貞の鎌倉進撃の道を訪ねてきました。お付き合いありがとうございます。
稲村ヶ崎から東勝寺跡、宝戒寺までの道程はこちらです。(完)