前回ご紹介した人形町駅から、東京メトロ日比谷線でひと駅足を延ばして、小伝馬町駅に来ました。
この駅を上がると(地下鉄のため)、江戸伝馬町牢屋敷跡があります。江戸伝馬町牢屋敷は、慶長年間から明治8年まで270年にわたって数十万人の囚人を収容してきました。幕末期には、安政の大獄で捕らえられた吉田松陰や橋本佐内、そして、岩手県水沢の旅でご紹介した高野長英(蛮社の獄で捕らえられた)が収監されていたところです。高野長英は、牢屋敷に火を付けさせ、脱獄し、東北、宇和島、薩摩を巡り、江戸に舞い戻って来るわけですが、この場所で、多くの有能な幕臣や藩士たちがこの地で命を落としました。
今は、十思公園として、都民の憩いの場になっています。
(高野長英を紹介している過去のブログ記事です。)
※「行くぜ、東北。高野長英のふるさと 水沢編」のブログ記事
http://blogs.yahoo.co.jp/simada7126/28170625.html
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公園内には、都指定文化財の「銅鐘 石町(こくちょう)時の鐘」が設置されています。これは、江戸の町に時を知らせた鐘で、処刑が行われる日には鐘を撞く時間を少し伸ばして、処刑を遅らせたという江戸町人の心持ちが伺える逸話も残されています。
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十思公園には、発掘された石垣が出土したままの状態で移築復元されています。そこから推測しますと、牢屋敷は高さ2.4メートルの高い塀で囲まれていたと言われています。
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復元された石垣の横に案内板が建てられています。
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公園の東側には「吉田松陰終焉乃地」の石碑が建てられています。
吉田松陰は、この伝馬町牢獄に2度収監されています。1度目は、安政元年(1854年)にペリーが再来した折に、下田から黒船に乗って密航しようと企て失敗し、下田奉行所に自首して、そのまま伝馬町送りになった時です。この時は、半年ほどで出獄を許され、地元長州で蟄居の身になりました。松下村塾を開き、高杉晋作や久坂源瑞などの志士を育てたのはこのころの事です。
2度目は、井伊直弼が朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約を結んだことに憤慨し、幕府批判を行い、咎められたときです(安政の大獄)。安政6年(1859年)、幕府の命で呼び出された松陰は、取り調べの最中に、老中首座(間部詮勝)を暗殺する計画を持っていることを自ら白状したことによって、死罪になってしまいます。
処刑後、小塚原回向院(荒川区)の墓地に葬られましたが、文久3年(1863年)に高杉晋作ら攘夷派の志士たちにより現在の世田谷区若林に改葬されています。
(吉田松陰を紹介している過去のブログ記事です)
※「幕末の下田を巡る①黒船来航と吉田松陰」のブログ記事
※「小塚原回向院と円通寺を巡る①」のブログ記事
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「吉田松陰終焉乃地」の石碑の隣に松陰が処刑されるときに詠んだ辞世の歌碑が建っています。「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」
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明治になって牢屋敷跡地に建てられた十思公園前の大安楽寺の境内には、処刑場があったとされ、刑死者の慰霊のため「延命地蔵尊」が祀られています。寺の正面には、「江戸伝馬町処刑場跡」の石碑を見ることができます。
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寺の正面には、また「江戸伝馬町牢井戸跡」の標識があり、当時の石垣が置かれています。
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公園に隣接している十思スクウェアの建物内には、「小伝馬町牢屋敷展示館」があり、牢屋敷の模型などが展示されています。
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おしまい