大岡越前といえば、かつては名優、加藤剛さんと決まっていましたが、何年か前から東山紀之さんに代わりました。段々と見慣れてきた感じがします。
そこで本日は、大岡越前守こと、大岡忠相にまつわる史跡を訪ねてみたいと思います。
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大岡忠相は、8代将軍徳川吉宗に推され江戸町奉行(南町奉行)に就任しました。享保の改革にも携わり、小石川養生所や町火消制度の設置をしたことは有名です。能力が認められ、寺社奉行となり、1748年には、西大平藩(三河)の大名となります。
大岡越前守の屋敷は、赤坂にありました。
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大岡家では、三河時代より豊川稲荷を信仰していたといい、越前守の時に、江戸の下屋敷に?枳尼天を勧請して祀ったといわれています。その後、大岡家の下屋敷が赤坂一ツ木に移転となり、豊川稲荷も引き続き移転先の屋敷で祀られることになります。江戸では稲荷信仰が盛んであったため、大岡邸では毎月「午の日」と22日には門を開けて、一般庶民の稲荷への参拝を許していました。その後、文政11年(1828年)、信徒の要望により、妙厳寺が一ツ木の大岡邸の敷地の内、4分の1(約250坪)を借り受け、豊川稲荷の江戸参詣所を建立したのが、東京別院の創建とされています。この写真は、甲州街道を歩き始めた日に撮ったものです。
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私は、商売繁盛、家内安全の神様と思い込んでいましたが、豊川稲荷東京別院は、曹洞宗寺院なのです。

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南町奉行所は、東京都指定旧跡とされ、現在、有楽町駅前に史跡が建てられています。この写真は、今日撮ったものです。
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随分と来ないうちに、有楽町駅の駅前はすっかり変わってしまいました。

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この2段に積まれた石は、ベンチではありません。この辺りを発掘調査した際に掘り起こされた当時のお奉行所の遺構なのです。
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大岡忠相は、1748年に西大平藩(三河)の大名となります。
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この写真は、2年ほど前の東海道53次ぶらり旅の時に撮ったものです。
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大岡氏の出自はもともと三河で、松平家に仕えていましたが、徳川家康が関東に入ると、高座郡堤村(茅ヶ崎市)に知行を与えられ、大岡忠相系統は相模国高座郡高田村(茅ヶ崎市高田)を分与されたそうです。

墓所は代々の領地のある茅ヶ崎市堤の窓月山浄見寺にあります。
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江戸の市中行政のほか、地方御用を務め広く知名度があったことなどから、大岡忠相が庶民の間で名奉行、人情味あふれる庶民の味方、正義の武士と評価され、後世に伝わったのでしょう。多くの方がお詣りにみえています。