世界遺産の韮山反射炉から車で10分ほどのところに重要文化財の江川邸(史跡 韮山役所跡)があります。前回触れた「お台場築造」や「韮山反射炉建造」などの顕著な功績を残したのは、江川家36代の英龍らでした。
江川家の祖先は、清和源氏の流れといわれ、この地に流された源頼朝の平家に対する挙兵(1180年)に応じて参戦し、江川荘を賜るころに遡り、今日まで約千年に及んでいます。
その後、鎌倉時代、室町時代の間、伊豆の豪族として地盤を固め、北条早雲の伊豆進出にあたっては、23代英住が土地を提供し、韮山城を築城し、5代にわたり北条氏の家来となりました。
28代英長は徳川家康に使え、直轄地である伊豆を統治し、江戸時代を通じて代官を世襲してきました。代官として支配していた領地は、伊豆、駿河、甲斐、武蔵、相模、伊豆諸島に及んでいました。領民からは、「世直し江川大明神」と慕われていたそうです。
現在は、42代江川洋氏(世田谷区在住・一級建築士)に引き継がれ、今でも、毎年1月には当主のもとに、代官時代の家来が集まり、恒例行事が行われているそうです。
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江川邸は、国の重要文化財に指定されていると同時に、韮山役所跡として国の史跡に指定されています。表門は、元禄9年(1694年)建築の薬医門。
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主屋の原型となる建物は、関ケ原の合戦が行われた慶長5年(1600年)前後に建てられたと推定されています。
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特に注目されるのは、高さ約12メートルにもなる茅葺きの大屋根を支えてきた小屋組みの架構です。現在の免震構造のようになっていて、過去の大地震にも耐えてきました。小屋組みには、一本も釘は使われていません。
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「生き柱」とは、江川氏がこの地に移り住んできた時に、生えていたけやきの木をそのまま柱として利用されたとされる柱です。現在の主屋より古い、前身となる建物の柱だったと考えられています。
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安政元年(1854年)にペリーから幕府に贈られたものと推定されます。
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江川英龍は、天保13年(1842年)頃、パン(現在の乾パンのような保存性が高いもの)を兵糧として用いようと考え、配下にパンの製造法を学ばせ、自邸内でパン窯を築いて実際にパンをつくっていました。昭和28年、全国パン協会は英龍を「パン祖」として顕彰しています。
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江川邸には多くの古文書や遺物が残されています。いずれも大変貴重な文化財とされています。係りの方が展示品について詳しく説明してくださいました。
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この井戸は、江川氏が元禄年間(1688~1703年)頃まで、「江川酒」と呼ばれる酒を造っていたときのものです。「江川酒」は、北条早雲や徳川家康からも美酒であるとお墨付きを与えられていたそうです。
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これは、明治、大正に造られた米蔵です。内部は展示スペースとなっています。
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これは枡形といわれるスペースです。江川邸の場合には、代官が外出する際に人数を揃えるのに使われていたようです。幕末には、農兵の訓練場として利用されていたそうです。
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ペリー来航をきっかけに、英龍の存在は老中阿部正弘ら幕府中枢部の注目を集めます。早速、勘定吟味役格に抜擢された英龍は、海防掛を兼ね、安政2年(1855年)正月の死の間際まで、江戸湾防備の実務責任者として奔走することになります。その間、西洋砲術の普及、台場築造、反射炉建設、農兵制度の導入などの功績をあげました。
また、安政元年の大地震により、ロシア使節プチャーチンの乗艦ディアナ号が座礁した際、その代船となる洋式船の建造にあたりました。そうした実績が認められ、勘定奉行の命を受け、江戸に赴くのですが、容態の悪化から亡くなります。
英龍の終焉の地である江川家屋敷跡(両国駅近くにある緑町公園付近)の一角に解説板と記念碑が建てられています。

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続く