幕末の下田を巡るの2回目は、下田を舞台に日本の開国に関わった史跡を紹介します。
まず、玉泉寺を紹介します。了仙寺において、嘉永7年(1854年)、日米和親条約が締結され、下田が開港され同年5月付録下田条約が結ばれると、玉泉寺は米人の休息所、埋葬所に指定されました。
その2年後、安政3(1856)タウンゼント・ハリス総領事は、通訳官ヒュースケンを伴い、米艦サンジャシント号で下田に着任しました。
また、一方で日露和親条約の交渉の場となり、ロシア、ディアナ号高官の滞在や、ドイツ商人ルドルフの約半年に及ぶ滞在など開国の歴史を彩る貴重な寺歴があります。
イメージ 1
ハリスは玉泉寺を日本最初の米国総領事館として開設し、庭前に星条旗を掲揚しました。以来210ヶ月、この玉泉寺は幕末開国の歴史の中心舞台となりました。
イメージ 2

アメリカ総領事旗掲揚碑は玉泉寺の本堂の前にあります。
イメージ 3
次は長楽寺です。安政元年(185412月、長楽寺において日本全権筒井政憲、川路聖謨とロシア使節海軍大将プチャーチンとの数回を及ぶ交渉の末、日露和親条約(日露通商条約)が締結されました。これによって、日本とロシアの国境が決定しました。
イメージ 4

イメージ 5
次は稲田寺です。稲田寺は、幕末開港時、 ロシア使節プチャーチンとの交渉に当たった応接掛 川路聖謨の宿舎となりました。その後、下田奉行伊沢美作守の宿舎とし、 安政の東海地震・津浪(1854)後、ここ稲田寺は仮奉行所になりました。山門を入って左側には、 安政の東海地震(1854) 後の大津浪で犠牲となった人達を供養する 津なみ塚 が建立されています。また、 お吉の夫となった川井又五郎(幼名鶴松) の墓もみられます。
イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8
お吉の恋人(元夫)の 鶴松は性格温順で酒も飲まず煙草の吸わない器用な船大工職人であったといいます。
領事ハリスの侍妾として仕えたお吉と後年、 旧情を温め仲むつまじく同棲(結婚)したのも束の間の4年ほどでありました。明治8年 故あって離婚すると鶴松は翌年に急死しました(お吉35才)。お吉は鶴松が大好きだった山桃を泣きながら墓前に供え冥福を祈っていたといいます。
イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12
苦悩の生涯を送ったお吉は明治15年より料亭を営んでいたと言われています。その料亭、安直楼(あんちょくろう)は、ペリーロードからほど近いところにあります。独特の格子柄は下田ではよく見かけるなまこ壁と呼ばれるもの。安直楼はお吉没後もお寿司屋さんとして使われていたそうです。この建物は下田市の歴史的建造物(史跡)に指定されています。
イメージ 13

イメージ 14
柳並木が立ち並ぶ石畳の小径ペリーロード。下田条約締結のために下田に入港したペリー提督が、了仙寺まで歩いたとされ、こう名付けられました。平滑川に沿って700mほど続くペリーロードには、幕末から明治、大正時代にかけて建てられた石造りの蔵やなまこ壁の商家を利用したレトロな骨董屋やカフェなどが建ち並び、どこか異国情緒が漂います。
イメージ 15
お吉は当時江戸幕府に命じられ、下田に黒船で来訪していたアメリカの総領事、ハリスに仕えた芸妓さん。仕えた期間は3日間ほどと言われていますが、当時の人たちからは唐人(とうじん)として偏見の目と罵声を浴びせられたようです。お吉は苦悩の生涯を送って、51歳の時に下田の稲生川にて溺死してしまった悲劇の女性と言われています。
イメージ 16
稲生川の堤防にお吉の碑があります。
そこには、小さな池が作られ、たくさんの鯉が泳いでいました。
イメージ 17
稲田寺から2分ほど歩いたところに宝福寺があります。宝福寺にはお吉の眠るお墓があり、宝物館には遺品もあります。
イメージ 18
また、嵐のせいで下田に寄港していた山内容堂に、勝海舟が坂本龍馬の土佐藩脱藩の罪の許しを願い出たとされる謁見の間が残されていて、見学することができます。
イメージ 19

イメージ 20
幕末日本の開国する過程がこの小さな下田の港町で展開されていきました。特に、ロシア使節プチャーチンとの交渉に当たった応接掛 川路聖謨は、江戸と長崎と下田を幾度も駆け回り、交渉をとりまとめていきました。幕末日本の開国の功績を残した川路聖謨は、薩長による江戸無血入城に際し、割腹した上で、ピストルで喉を撃ち抜き亡くなります。江戸幕臣として生き抜いた最後の一人だったかもしれません。 2016.7.16~18 伊豆高原 浮山