「大山街道を歩く」の3日目(下鶴間から伊勢原)の最終回です。相模川を渡り、最初に訪れた場所は、厚木神社です。
天延年間(973)年頃に創建された神社。明治5年に厚木神社と名称を変えています。
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万年屋跡の碑です。天保2年(1831)渡辺崋山は、江戸を発ち、目的のお銀さまとの再会を果たしたあと、厚木宿に訪れ、旅籠万年屋で2泊しています。
渡辺崋山は三河国の小藩・田原藩家臣の長男として江戸に生れました。
一方、お銀さまは相州早川村(綾瀬)の生まれで、渡辺崋山が少年の頃の渡辺家に奉公する女中でした。渡辺家が藩主の側用人を務めていた関係で、お銀さまも藩主(第11代三宅康友)のお世話をしているうちに、藩主に寵愛されて、鋼蔵(後の友信)を生み、側室に昇格しました。翌年、お銀さま実家の母が急死したため、乳飲み子を江戸に残して、早川村の実家に帰りました。その間に、小藩・田原藩の悲しさか、離縁されてしまったのです。その後、康友に仕えていた崋山は、14代藩主の後継に(お銀さまが生んだ)友信を推挙しますが、藩は財政を立て直すため、姫路藩から後継を迎えました。友信も一児(第15代田原藩主三宅康保)の父となり、生みの母「お銀」の消息を知りたいと、側用人の崋山に依頼したことから、渡辺崋山のお銀さまの消息を尋ねる大山街道の旅が実現したのです。江戸を発ち、3日目に小園(綾瀬)で、貧しい農家の主婦となったお銀さまと25年振りに感動の再会を果たすのです。
1832(天保3)年、江戸詰年寄役に就いたころから、崋山は、高野長英らと蘭学を研究し、海外事情にも通じるようになりました。藩政改革に実績を上げながら、幕府の鎖国政策に批判的意見を強めるようになり、1839(天保10)年、幕府により長英らとともに投獄(蛮社の獄)され、国元・田原で蟄居の身となり、同12年その地で自刃しました。享年49歳でした。
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厚木の総鎮守社の熊野神社
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庚申塔(道標)
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愛甲石田駅の近くにある円光寺
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庚申塔(道標)
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粕屋宿の案内をされている自転車屋さん。
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伊勢原市指定重要文化財の石造多宝塔
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石造多宝塔がある普済寺
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石造多宝塔の説明板
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渋田川
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渋田川に架かる道灌橋
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太田道灌の菩提寺の大慈寺
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道灌の墓が大慈寺の近くにあります。
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太田道灌の墓。文明18年7月26日、道灌は、主君、扇谷上杉定正に相模、糟屋の館に呼ばれ、湯殿に招かれて暗殺されます。55歳。下手人は曽我兵庫はじめ数人。暗殺の原因は不明ですが、一説に、道灌が居るかぎり、扇谷上杉氏の繁栄は疑いがなく、山内上杉顕定が扇谷上杉定正に、「道灌謀反」を信じ込ませ討たせた、とも、定正が、道灌の才能と人気に嫉妬した結果、とも言われています。
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太田道灌の墓は、広場となっています。
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次回は、いよいよ大山阿夫利神社まで行きます。伊勢原から見た大山
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厚木から伊勢原のマップ
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