妹尾幸治の現在位置~ぼくはここにいます

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ウィキ風自己紹介

人物



・1978年1月11日 大阪府堺市 生まれ。2歳年上の姉との2人姉弟。



福岡ソフトバンクホークス大隣投手は親戚(妹尾の父の従兄弟の子ども)にあたる。ただし、面識はないらしい。

本人曰く「昔親戚の法事で高校時代の大隣くんに会ったことはあるらしいけど、あまり印象に残っていない。もちろん大隣くんも覚えてないでしょう」とのこと。



・小学4年の頃から、近鉄バファローズのファン。小学5年からは大ファン。

キッカケは、買い物していたときに天美のライフ(地元の人しか解らない)で買ってもらった三色帽子(当時の近鉄の帽子)。

ちなみにそのとき店頭に並んでいたのは巨人阪神西武の帽子で、「一番カラフルだから」という理由で近鉄の帽子を選んだ、とのこと。

後に「あのとき他の球団の帽子を選んでいたらと思うと、ゾッとする」と回想している。



・アルバイトをしながら小説ブログなどを執筆しているアマチュア作家。



・正月などに親戚が集まった際には即興で漫談や落語的なものを披露し、おひねりを貰うような、目立ちたがりの子どもだった。

このことを引き合いに出して母が「コイツは本気で吉本(興業)に行くと思っていた」と回想していたことがある。

妹尾本人は某ブログで「学校で同級生を笑わせたりするよりも、どちらかと言うと学校の先生や親戚の伯父さんや伯母さんなど、大人を笑わせることに快感を覚える子どもだったと思う。潜在的に、自分より大きな人を笑わせることで自分のレベルを図っていたのかも知れない。またこのときに、純粋に人を笑わせることの楽しさや魅力を幼いながらに感じていた」とコメントしている。



・末っ子であったため年下の兄弟に憧れ、友人の弟や妹には滅法優しく、それぞれの誕生日の記憶はもちろん、クリスマスにもその全員にプレゼントを配り歩いていた。



大阪府立M原高等学校を卒業し、一浪時代のU陽ヶ丘予備校(夜間コース)を経て、大阪K済法科大学 K済学部に入学も、3年時に中退(本人いわく、手続きをしていないので厳密には中退ではなく除籍扱いになっていると主張している)。



・大学時代に文芸部に所属。また大学中退の少し前から某文芸サークルに所属するようになる。



・アルバイト遍歴は、多種多様。

工場の荷詰めの仕事から、ホテルのベッドメイク、ファーストフード店店員、工場内の機械洗浄、ホテルのバンケット、パチンコ店店員、ビデオ店店員、スーパーの荷出し等。「人見知りが激しいくせに、なぜか業種は接客業が多い」とは本人談。

(詳細は、来歴の職歴項を参照)



・現在は故郷の大阪を離れ、大分県佐伯市に在住している。





来歴



(執筆活動)



・1987年 小学4年の頃に、当時小学6年の姉が小説を書いていた真似ごとで、初めて小説を執筆する。

ジャンルは推理小説で、タイトルは「4年2組殺人事件」。クラスメイトが密室の教室で殺されたトリックを、主人公とその友人が何故か漫才形式で事件を解き明かしていく。が、密室トリックを考えることを放棄し、密室状態の教室で自殺をしただけ、という結末にしたことから、初の読者だった姉からダメだしをされ、以降小説の執筆は控えていた。



・同時期に自分の書いた小説を漫画化した際には自分の画力のなさに3ページで挫折し、のちに某所で妹尾自身が「あれが漫画家になろうか、作家になろうか迷っていた自分の分岐点だった」と回想している。



・1993年 高校1年の頃に、姉の就職活動を機に小説の執筆活動を再開する。

当時はノートに手書き形式で、書きあげて推敲も何もしないままの文章を友人に見せていた。

内容はかなり内輪ネタ物だったが、それが功を奏して友人の妹にはウケがよく、毎回新作を楽しみにされたことから文章を書く楽しさを実感していく。

ちなみに生まれて初めて貰ったファンレターはその友人の妹からもので、それはずっと大切に保管されていたが実家を建て替えたドサクサに紛れて捨てたれてしまったらしく、今でも本人はそれをかなり悔やんでいる。



・同じ頃、「ちびまる子ちゃん」の作者・さくらももこのエッセイ集「たいのおかしら」を読んだことで影響を受け、妹尾の中の「物書き=小説家」という図式が崩れる。

以降、文章で人を笑わせる手段のひとつとして、エッセイも執筆を始め、エッセイストという職業も意識するようになる。



・1997年 予備校に通っていた頃には文章を掘り下げていくうちに「万人に理解される文章を書くためには、まずは子どもの目線に合わせた文章でなければならない」という観点から童話作家を目指していたこともあった。

当時尊敬していた、「クレヨン王国シリーズ」の童話作家で知られる福永令三さん原作のアニメが放送されると聞き、欠かさず視聴するようになったことを契機に、日曜日の朝8時半は1週間の中で最も欠かせない時間となっていくことになる。




大学入試は「学力試験じゃ受かるはずがないので、小論文で」

大学入試を受ける頃には大阪を出るという思考が強かったらしく大分大学大阪大学を受験。大阪大学の小論文はあまり受かる気がなかったので本人は適当に書いて出したつもりだったが、適当レベルでも文章のセンスは突出していたようで、8.65倍という倍率であったにも関わらず、「ついうっかり」合格してしまう。


大分大学にも受かっていたのだが、大阪大学に受かってしまったことで、親に大分行きを猛反対され、そのときの大阪脱出は成らず。


「親どころか、親戚ぐるみで反対されましたよ。けど後にこうして大分に出てきてるんだから、人生って分からない(笑)」

大学では、小6から高3まで続けていた卓球部に入れなかった(推薦でしか取らないような強豪チームだったため、中・高と弱小チームに所属した妹尾の居場所はなかった)ため、文芸部に入部。

ちなみに当初は文芸部にするか演劇部役者脚本家として)にするか迷っていたが、最初に見学に行った文芸部でお茶菓子を御馳走になったことで文芸部に所属することになったらしい。



大学2年の学園祭で出した個人誌が、学園祭と文化祭、合わせて4~5冊も売れればいいほう、と言われる中、学園祭の2日間だけで25冊売れ、当時の文芸部配本率新記録を樹立する。未確認ではあるが、この記録は未だに破られていないものと思われる。

ただ本人は、「個人誌製作をずっと手伝ってくれていた先輩の文芸部引退記念本よりも出てしまったから、随分肩身は狭かった」と後述している。



大学を中退する少し前から、当時個人的に尊敬していたアマチュア作家の知り合いの方が某文芸サークルを興すと聞き、そこに所属するようになる。

当時のサークルでの立ち位置は、その代表の「側近」。しかし後に彼がサークルを退いてからは「サークルのエース」を自称するようになる。



・サークルに初代代表の従兄妹で、のちにサークルの副代表にまで上り詰める女の子が入ってくる。妹尾は度々その子を「天才」と称しており、「サークルのエース」と豪語していた妹尾がサークルを引退する遠因にもなる。

逆に彼女のほうも妹尾の小説のファンと語っていたりしたが、妹尾は「それは天才が凡才に施す褒め殺し」と聞く耳持たず。

作品的にも人間的にも妹尾が尊敬する初代代表の従兄妹だったことから「同じ家系に天才が2人いるということは、これは間違いなく血筋。いくら文章磨いても、才能・素質という血を俺は超えられない」と、サークルを引退。

もっとも、引退の理由は本人曰く、他にも幾つかある、とのこと。



・それからしばらく、のらりくらりと文章を書くことを趣味とし、流行りの「ブログ」とやらを開設する。

ちなみにサークルを引退してからも、サークルの副代表になった「天才」と、他数名とは個人的に交流を持っていた。


そんな中、2008年秋、サークル副代表の突然の訃報。

これをキッカケにして、小説家になることを決意し現在に至る。

またブログ内でも彼女の訃報には触れており、そこでも「彼女と自分、2人分の夢を背負って生きていく」と表明している。




(学生時代等のエピソード)




初恋幼稚園時代。意外とマセている。



初恋の相手は、出席順でも背の順でも妹尾の1つ前か後ろにいた女の子で、全体写真を撮る際にはたいがいすぐ近くに映っていたりするが、卒業写真だけ彼女とは端と端になってしまい、思いっきり彼女のほうへ目線が泳いでいた瞬間を撮られている。(写真自体は辛うじてカメラ目線だが、顔の向きが不自然)



・ちなみに初恋の相手とは小学校に進学して1年・2年時も同じクラス。後々明らかになるが、妹尾は恋愛関係において、クラス替え時は無類の強運を発揮しており、大概好きな子とクラスメイトになっている。

のちの妹尾が「学生時代に運を使い果たした」とかねがね口にするのは、この辺のことを指して言っているものと思われる。



小学1年の頃、クラスの男女3~4人で初恋の彼女の家に遊びに行く、という企画が持ち上がり遊びには行くものの、緊張していたのか断片的にしか記憶がない。


「彼女の家の場所は妹尾の家の近所で、行こうと思えば今も行けるぐらい道順を覚えているから、家に遊びにいったのは確かな事実だと思うけどね。

けど、もったいないけど記憶が飛んでる。

ただ、みんなで遊びに行ったはずなのにどうしてか最後は2人きりになってて、別れ際に『もう帰っちゃうの?』って言われたことは覚えてて。

今から考えたら、あれって両想いやったんちゃうかなぁ…。まぁ、仮に両想いやったとしても、小学1年の頃の話やけど」

と、本人談。


しかし結果的に、小3に進級する際に彼女が引っ越してしまい初恋が終わる。



・某掲示板で結構語られたエピソードだが、現在小説家を目指しているわりには、日記や作文が大っ嫌いな子どもだった。

特に小学校1、2年の頃は「きのうは、こうえんであそびました」以外の文章を書いた記憶がない。

夏休みの宿題の日記で、うっかり台風が直撃していた日にも「こうえんで~」と書いていたために、先生に怒られたこともあるらしい。



小学4年の頃、児童会役員選挙書記に前期・後期ともに立候補して、両方とも落選するという離れ業をやってのける。


後期で立候補した際には体育館で全校児童を前に演説する「立ち会い演説会」というものに、放課後残って、担任の先生とマンツーマンで作り上げた演説原稿を教室に置き忘れてしまうという失態をしたため、ソラで演説することになったのだが、緊張で頭の中が真っっ白になってしまう。

そこから、どのように演説したのかはまっったく記憶にないのだが、教室に戻ったあとのクラスメイトの話では、その場凌ぎに「みんなに推薦されて立候補しました!」などとかいう大ボラを吹いていたらしく(実際には自分から立候補していた)、そのためにクラスメイトから総スカンを食らう。


「あのときは確かにキツかった。あの演説直後はクラスメイトの98パーセントがA級戦犯扱いでしたからね。そりゃ、しょうがないよ。選挙用のポスターとか、いろいろと作ってくれてたわけだし。

俺の記憶が確かなら、あのときクラスのみんなには謝罪とかはしてないんだけど、担任のT村先生には謝ったな。一緒に作った原稿を教室に置き忘れたのが申し訳なくて。

謝ったとき半笑いで、しゃあないってひとこと言ってくれたT村先生の顔は、今でも鮮明に残ってます。

それから、クラスメイトでも1人だけ、O村くんは励ましてくれて。あれも嬉しかったなぁ。

けど、一番キツかったのは学校じゃなくて、むしろ家のほう。当時小6だった姉貴が、そっから1週間ぐらいまともに口を聞いてくれませんでしたからね。話によると姉貴は姉貴でダメな弟のために、クラスではかなり冷やかされてたらしいしね」



・ただ、そのことで学校全体でみても妹尾は全校児童の知る有名人になる。

妹尾幸治、なぜか人生で最大のモテ期に突入。


特に姉貴と同学年の女子児童にはかなりモテており、姉貴曰く「それまでほとんど私と会話をしたことがないような子が、弟を紹介して、って言ってくる」


また家に遊びに来た姉の友達が、妹尾が外出していていないと解るとそそくさ帰っていったという、今となっては信じられないエピソードがある。


ちなみに当時はサイン帳が流行していた時期であり、姉の学年の卒業時には妹尾に10通弱「書いて」という依頼が来ていた。

ちなみにその10通弱は、直接渡されたワケではなく、姉貴を経由していたので、姉貴もかなりウザがっていた。

しかし、妹尾自身が会って話したこともない人からもサイン帳の来ていたことに、幼心に恐怖を抱き1通も書かなかったらしい。


「当時から、あまり年上は好みじゃなかったんですよね(笑)。多分、姉貴があまりにも妹尾の中の『年上女性像』を汚していたんでしょう(笑)。

だから、年上と…特に歳の近い年上と付き合うのって有り得ないなぁ。コレ、今でも多分そうですね」

と後に壊述するも、

「あぁ、でも姉貴の友達だったO平さんならね、あの人となら、当時から付き合ってみたかったかも。姉貴にも『O平さんが俺のお姉ちゃんやったらよかったのに…』とよく言ってました。けど、上手く行かないんよなぁ…。モテ期にあった俺でも、O平さんはフッツーに接されたなぁ」



小学校低学年中学年ぐらいはそれほどでもなかったが、小学5、6年時はクラスで常にトップから5本の指に入る成績だった。

一方、体育図工音楽といった科目は滅法苦手。


当時から常にクラスのトップの成績だったⅠ田くんにライバル視されていたが、妹尾本人のライバルはⅠ田くんではなくK村くんだったと主張している。


「当時から、理系のK村、文系の妹尾。理科と算数は、まぁ~勝てなかった。こっちがいくら満点を取っても、K村くんも当然のように満点やったし。理科算数のテストの点で勝ったのは、2年間でも数回しかなかった。

逆に、漢字の書き取りテストで負けたときは、悔しかったなぁ。彼が満点。俺がド忘れして1問間違い。あのときは、家に帰って泣きましたからね、本気で。

しかも当時の担任の先生、満点だと派手に花マルとか書いて「good!!」とか書き添えてくれるんだけど、たとえば1問間違いだと『-1』って書くんです。もう、見た目が101点引き(苦笑)。幼心に、あの書き方は屈辱でしたねぇ。

K村くんとは、小6のときも同じ卓球部で。確か、卓球も1勝1敗なんよ。もう、いろんな意味でライバルでした。

中学で急激に成績が下がったのも、K村くんがいなかったからでしょうね。彼は確か、私立の中学に進学したんだっけ? とにかく、中学で離れ離れになって。

それだけに、彼の存在は大きかったですよ」



小学校高学年ぐらいのときに好きだった女の子とは、中学に進学しても同じクラスで、小学校時代と同じく自分の運の強さに驚く。


「けど正直、小学校の卒業式で会話すらできなかったんで、もういいや的な気持ちになってて、彼女と同じクラスになりたい、とかいう気持ちはなかったんですよ。けど、クラス発表されて、同じクラスになってる…。しかも当時は8クラスあったので、確率は8分の1だったですから。もしかしたらすごい守護霊でも憑いてんのかなぁ?と思ってました」



中学1年の冬休み前ぐらいから、クラスメイトの女の子とイイ感じの関係になり、明けて3学期すぐの妹尾の誕生日にはその子から誕生日プレゼントをもらう。

小学校時代からモテ期はあったものの、これが異性からもらった初のプレゼント。


「いや、確かに仲は良かったんですが、プレゼントもらったときは、『なんで?』って気持ちのほうが強かったですね。

これはもしかしたら、コクればイケてましたかね? すごい目鼻立ちの整ったカワイイ女の子だったんですけど、もったいないことしたかなぁ…」


ちなみに彼女の誕生日は2月で、お返しをしたのだが、それが彼女からもらったプレゼントより、かなりチープなものになってしまったのを猛烈に後悔する。


「当時は月の小遣いが500円とかそういう世界でしたからね。もう、何をあげたのかも覚えてません。もらったものは覚えてるけど。文具セット。あの過去は、もう1回やり直したいなぁ…」


意識しだした時期も悪く、間もなくクラス替えとなり、結果彼女ともそれっきりになる。


そしてこれ以降、現在に至るまで1度もモテ期は訪れていない。





(職歴)



中学生の頃の夏休み、当時父親が働いていた富田林市のゴルフ場のレストランで、1日限定で料理の盛り付けやウエイターの手伝いをする。


手伝いなので金銭的な報酬はなかったものの、手伝いに行った日がちょうど、地元ではメジャーな花火大会「PL花火芸術」の当日で、しかもそのゴルフ場が大会の会場だったことから、花火大会は観客席からは観れないほどの至近距離で花火を鑑賞でき、帰りの車の中で「あの景色が一番の報酬やった」と語る。



・報酬を得る初のアルバイトは工場。お歳暮やお中元をはじめとした出荷物を、ベルトコンベアーで流れてくる箱に詰める作業をする仕事。

妹尾と同じ高校に通っていて妹尾と同じく一浪することになった子と2人で働きだしたのだが、研修期間最終日の10日目の仕事中、カッターナイフで手を切り6針縫う怪我を負い、そのまま退職。

その工場が緑橋(大阪市営地下鉄中央線)にあったため、その後しばしば「中央線に乗ると手の傷が疼く」と根も葉もないことを語っている。(大分に移り住んでいる現在は、さすがに中央線に乗る機会はないのだが、多分いまだに傷は疼くものと思われる。相変わらず根拠はないが)



・工場を辞め、手の傷が癒えてから始めたバイトはホテルの客室整備。のちに、ベッドメイクは5時間で60台組めれば一人前と言われる職場に於いて、4時間半で100台組み、客室整備班のエースに。


当時の客室係で次長を務めていた清水さんを「親分」と呼び尊敬していた。「親分」名づけの由来は、「清水次長は、あいだに「郎」を入れたら清水次郎長になるから」

ただ、尊敬していた清水次長が異動になった辺りから素行不良になり、最終的には戦力外通告を受ける。

このエピソードからも解るように、「尊敬できる上司にはついていくけど、尊敬できない上司の下で働くのは嫌」という、我の強い性格を持っている。



・余談だがホテルは大阪上本町の某ホテル。高校時代に好きだった女の子と同じ名前のホテルだったことから絶対ここで働く、と決めたらしい。そのことは、事あるごとに同僚に話し、呆れられていた。(ちなみにその女の子には高校の卒業式で告白し、フラれている)



大学1回生の5月には、高校時代の友達(先述の工場のときの友達とは異なる)と2人でファーストフードで働く。志望動機は「女の子にモテたいから」

のちに妹尾自身が「モテたいというよりも、それまでほとんど女の子と会話なんかしたことなかったから、そんな自分を変えようと思って…」と苦しい言い逃れを付け加えている。



・超が5つぐらいつくマイペースな性格からか、「ファースト」には程遠い仕事内容で、入った当時は辛辣な扱いを受けており、夜の繁盛時に厨房の壁の拭き掃除をさせられるなど、職場内でも浮いた存在だった。



・酒の席でマネージャーから「妹尾くんは(この仕事には向いてないから)いつクビにしようかと思っていた」とカミングアウトされた経験もあるが、親身になって指導してくれる先輩もいたのでいつか立派になって恩返ししよう、それと俺を煙たがってた奴らを見返してやろう」という忠義心反骨心を持っていたので、自ら辞めることはなかった。


妹尾が新人だったころ職位がかなり上のある先輩にコキ下ろされていたが、仕事を続けたことによって最終的にはその先輩と同じ職位に上りつめ、最終的には結構敵意を込めて「○○くん」呼ばわりしてやった、のだそうだ。



大阪の職場を辞めて大分に行く際は、3日で4度の送別会を開いてもらったそうで、「俺も長いこと務めていろんな人を見送ってきたけど、これほど送別会開いてもらってた人はおらん」と、いまだにそのことを自慢している。



大分に渡ってから、パチンコ屋で働くも腰を壊して半年で辞める。



・その後、「本屋で働きたい」という希望があったため、深夜までオープンしている本屋ができると聞きつけ面接に行くも、そこが「書店」という名のついたエロビデオ屋さんだったので愕然とするも、引くに引けなくなってそこで働く。

地味ながら1年ぐらい続けたらしく、当時デビューしたAV女優の名はほとんど覚えているようだが、もちろんその知識が役に立ったことは今までで1度もない。



・同時期にホテルのバンケット(ボーイ的な仕事)や24時間営業のスーパーの深夜の荷出しの仕事などしていた。

特にホテルで働いていた頃のことについては、某ブログで愚痴を垂れ流している。



・2008年の夏から、大阪で務めていたファーストフードに復帰するも、大阪にいた頃ほどのカリスマ性や人望はない。

最近書きこんでいるMIXIの日記では、「16歳の小娘にダメ出しされ、論破される」という失態を赤裸々に語っていたりもする。



名言


(言われたもの)


「風邪は悪化したらひどくなるから、気を付けてネ(>_<)」

妹尾がアマ作家としてライバル視していた子から、体調を崩した妹尾に送られてきたお見舞いメール。


「何気ない日常を面白く書く天才」
上記コメントのライバルが、自身と一緒に過ごした何事もなかった2日間が妹尾のブログで面白おかしく語られていたことに感嘆して、妹尾を評したひとこと。

それ以降、このセリフは妹尾を表現(褒め殺し?)する上で、よく用いられることとなる。


「まぁ、迷わず落とすわな」

当時某社で面接官をしていた父が、「もし妹尾が面接に来たらどうするか」というテーマで語った第一声。ショックではなく、「さすが、よく俺のことを見てるなぁ」と、逆に父を尊敬した言葉らしい。


「妹尾が来ると、雰囲気が変わる」

大阪で働いていた当時のマネージャーの言葉。

雰囲気が変わるというのは、実際には、当のマネージャーが従業員から敬遠されており、妹尾がマネージャーと従業員のあいだに立つ役割を担っていたかららしい。

ぶっちゃけ「妹尾が好かれていた」、というよりはマネージャーが……。


「小説家になんか、なれるわけがない」

いろんな人から言われたひとこと。もっとも、これが現在の妹尾の反骨心のもとになっている言葉らしい。


(言ったもの)


「小説家を目指すのが義務じゃない。小説家になることが義務だから」

現在の妹尾の心情を物語るひとこと。


「よく、『小説を通して、読者に夢や感動を与えれるような作家になりたい』という輩がいるけど、あれは絶対嘘。作家として自分の作品を誰かに見せたい、という願望が一番最初に来なければいけない。買わなきゃ当たらない宝くじと同じで、自分の小説を誰かに見せたいという、自分中心の願望が最初になければ、誰かに夢や感動を与えることなんてできない。アマチュアの作家が、書く前から読者に期待されてるなんてあり得ないことだから」


「『勧善懲悪』という言葉は、僕は好きじゃない。それは『完全懲悪』を意味する。時として、悪者には悪者なりの正義が存在するはずで、そこを100%平気で否定する人は、僕の中ではもう、偽善者と呼ばざるを得ない。まして作家を目指すのであれば、その両方の感覚を持てないと、深みのある作品には辿り着けないはず」

某掲示板での、文芸サークルの後輩に宛てた発言の抜粋。普段はちゃらんぽらんでも、文筆に関してだけは確かな哲学があることが窺い知れる。


「ん~……、もうちょっと腰落として打ってみ?」

中学時代、頑張って練習しているのに決定打がなかなか決まらず勝てなかったF岡くんにアドバイスを求められたときのひとこと。

このアドバイスひとつで面白いようにスマッシュが決まりだし、彼が団体戦のAチームに入れるぐらいの実力になったときは、さすがに妹尾もビックリした。

のちに団体戦ダブルスで妹尾・F岡組で勝利するまでになりとても感慨深かった、という記憶があるらしい。


作品



<於・文芸部>


「それって、マジかる!?」


「ANGEL DAYS」


「青い空と、蒼い海。」


「HAppy DAnce」


・(個人誌)「えんじぇる でいず」


<於・文芸サークル>


「僕があるいてきた道」


「SELF SERVICE」


「棄て台詞」


・(コラム作品) 「引退~「棄て台詞」に添えて~」



関連リンク


「まきのせのi‐world」(現在活動無期限停止中)

妹尾本人(ただしハンネは異なる)による日誌等。活動は、大阪時代から大分渡航初期にかけて。

http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=neoblack

「妹尾幸治の現在位置~ぼくはここにいます」

妹尾本人のブログ。特にテーマを持たず、不定期に更新。

妹尾の周囲には実は結構このブログのファンがおり、更新を心待ちにされていたりする。

http://ameblo.jp/mondo-nagamine/

「にゅうよくTIMES」(現在活動休止中。年内に再開予定)

妹尾本人による時事ネタ(主に社会面の隅ぐらいで扱われるネタ)についてのコラム。

http://blogs.yahoo.co.jp/kazunori_makinose

「あいこにおまかせ」(現在活動停止中)

妹尾本人が管理人を務める「おジャ魔女どれみ」関連サイト。なりきり掲示板もあったが、リンクからは外されている。

http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=ojamamajo

・他、mixiでは妹尾幸治名義で活動中。




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