心のことに興味をもった日のことをとてもよく覚えています。それはずっとずっと昔のことで、たぶん、中学生とか、高校生くらいのころのことで、私はその日、なにかでとても傷ついて、胸がもやもやとしていました。でも私はそのとき、その日に起きた胸をもやもやさせる出来事には向き合わず、今日のお味噌汁は、なにかなーなんて、考えていました。そして、あれ?おかしいな、私は今、とても傷ついていて、そのことで胸がもやもやしているのに、頭では、今日の味噌汁のことを、考えているな、と思ったんです。それで、ちょっと、自分にちゃんと聞いてみよう、と思います。
私は、傷ついているよね?
すると、そうそう、と、私の中の私が言います。
どうして傷ついているんだろう?
こうこうこんなことがあったから、すごく悲しくて、なんだか私は、いらない存在のように、感じたんだよ。
なるほど。
そんな風に、ちょっとの間、自分と話しをしたら、胸の痛みがすっとひいて
ああ、そっか、と、思ったのを、覚えています。
ふたをされた私の気持ちが、聞いて欲しくて、そこに取り残されていたんだなーって。ただだからって、そこで、心のすごいなにかに目覚めるわけではなくって、また普通に生活する普通の私のまま、どんどん時が経って、私は大人になりました。でも今、ああ、そっか、ふたをされた私の気持ちが、聞いて欲しくて、そこに取り残されていたんだなーから、瞑想をするようになったり、いろいろな本で、クオンタムフィジックスの世界を知ったり(自分の世界は、自分の思考でできている、っていう世界ですね)、自分に、向き合ったりして、今です。
今日は突然、ああ、変わるっていうことは、自分の世界で起きるひとつひとつの出来事や、自分の世界に存在する人、ひとりひとりの人たちへの感じ方を、変えていくっていうことなんだなぁって思いつきました。感じ方を変える、っていうことは、考え方を、変えるんですね。だけど人は、自分がそのときにどう考えているかってちょっとよくわからないこともあると思うんです。でも心はとても素早く、それ(思考)をキャッチして、感情を発信するんだと思います。
例えば
明日は仕事、という事実がまずあって
それを思ったときに
沈んだ気持ちになる、という反応があるとしたら
そこには、明日は仕事、ということに対しての、思考がなにか、あるんだと思うんです。
それはもしかしたら
ああ、あの嫌な先輩と会議で一緒だな
また嫌なことを言われたらどうしよう
みんなの前で恥をかかされたら嫌だな
会議に行きたくないな
などなどなど
でもこれを頭の中で言葉にしなくても、心はずーんと沈んで、自分の思考に反応しています。
うつ、という症状で苦しくなってしまう人たちは、よくわからないけれど、とにかく心が沈んで浮かび上がないまま苦しかったり重かったり何もする気持ちになれなかったりっていう状態で、自分がそうなってしまうもとの思考に気が付けていない状態なんじゃないかなって思います。気が付けていない、または、向き合えていない思考の量が多すぎて、自分がどうしてうつになってしまっているのか、わからない。そんな感じなのかなって、思いました。
私も、どうしてか、なんでかわからないけれど、胸が苦しい感じがするのが、もう何年も続いているんです。それは、ずーっと、1年中続いているわけでなくて、何年もそんな風に感じることはなかったり、かと思ったら、突然なんでかわからないけれど、そんな日が何日も続いたり。でもそれが続いているときでも、瞑想をしたり、ヨガをしたりしていると胸の痛みはいつの間にか消えているので、やっぱり、思考が働いているときに、この胸の痛みは、やってくるんだなぁって感じます。でも、自分がなにを考えていて、そんな風になるのかは、わからないんです。
それでちょっと、カウンセリングを受けることにしたら、面白いことが、起きました。
長くなってきてしまったので、また次回に続きますね。