「群盲象を評す」という教訓的な言葉があります。


何人もの盲人を「象」という動物の
身体の一部に触れさせて、
 これは何だと王様がたずねる。

足を触った盲人は「柱のようです」
尾を触った盲人は「綱のようです」
鼻を触った盲人は「木枝のようです」
耳を触った盲人は「扇のようです」
腹を触った盲人は「壁のようです」
牙を触った盲人は「パイプのようです]
それを聞いた王様はこう答えました。

「あなた方は皆正しい。あなた方の
が食い違っているのは、あなた方
ゾウの異なる部分を触っている
からです。ゾウは、あなた方の言う
特徴を、全て備えているのです」


この教訓は、同じ真実でも表現が異
なる場合もあることであり、異なる
信念を持つ者たちが互いを尊重して
共存するための原則を示している。


「群盲象を評す」は
世界中に広まっている言葉なので、
多少意味違いはあると思いますが、
僕はこの教訓が『龍』にも
しっくりくると思っています。

つまり、我々は『龍』という
大きな生命体の一部を捉えても、
それはこの教訓の『象』の真実と
重なる部分が往々にしてあり、
だからこそ多くの捉え方が必要で
あると考えています。


それがたとえ「龍の一部分」でも
それが「龍」で在るかぎり、切り
離せないのです。

「神は細部に宿る」
その細部にも龍は宿っている
と思うんです。

以上「龍と云う巨大な生命体」でした