勝手口のドアが少し開き、「トーキョーさん、いるんでしょ」と声がした。

ジェロだ。

一気に緊張が解ける。「ああ」と返事をした声がかすれていた。

ドアが開き、ジェロが入って来る。

「どうしたの?顔色が悪いよ」

ジェロはワゴンの上にひょいと飛び乗って腰を下ろすと「新作は思いついたかい?」と言った。

私は握っていた包丁を元の場所に戻すと、「アイデアがあふれ出し過ぎて困ってるよ」と言い、冷蔵庫から商売用のグレープフルーツジュースを出してコップに注ぐ。

ジェロは「そんな風には見えないよ。『もう参った』の顔つきだね。それは」と言い、私が差し出したコップを受け取るとゴクゴク喉を鳴らしてそのジュースを飲みほした。

「さっき、うちに来たんでしょ?」
「ああ」
「今日は用件が出来たんじゃなかったの?」
「半分は済んだ」私は上着のポケットから10ドル札を掴みだすとジェロに手渡した。「料理長からだ。未払いの賃金」
「へえ、そんなの良いのに。でもせっかくだから貰っとくよ」
「ああ、そうしろ」
「用件の残りの半分は?これからやるの?」
「そのつもりなんだがな・・・・」
「良いアイデアが浮かばない。図星でしょ?」
「アイデアは泉のように湧き出ているさ。ただし実行する手段が乏しいだけだ」
「どういうこと?」
「おそらく材料が揃わない」

私は、日本食のイメージをジェロに想像させてみた。
例えば、すき焼きはスライスした牛肉を脂で焼いて砂糖と醤油で味付けし、野菜と一緒に煮て、溶かした生卵につけて食べる。とか、豚の生姜焼きはすりおろした生姜と醤油のタレで味を付けたものだとか、肉じゃがはジャガイモとタマネギを牛肉と一緒に煮て、薄口の醤油で味を付けたものだとか。出来るだけ詳しく分かりやすく話して聞かせたのだが・・・。

「待ってよ。そのショーユってのがどういうものか分からないから、想像なんて出来ないよ」
「そうだろ?この町には醤油がない。日本食で醤油は必ず必要なんだ」
「僕が知らないだけで、マーケットに行けば置いてあるかもしれないよ」

醤油だけじゃない。日本食を作るなら味噌やみりん、出汁をとるための煮干しや鰹節、昆布だって必要になる。そういう日本食を支える一切の調味料が手に入らないだろう。

「こだわりすぎなんじゃないの?ホンモノの日本料理なんて、この町の人たちは食べたことないんだから。似たような材料を探してそれらしく作るって手もあるでしょ」
ジェロに言われて、あの大漁旗を掲げた「サムライ」というインチキ日本料理店を思い出した。

「そのことはちょっと置いといてさあ、俺のばあちゃんの料理を二人で考えてみようよ。そうすれば、何かのヒントも思いつくかもしれないでしょ?」






私はジェロと一緒にマーケットへ足を運んだ。

思ったとおり、醤油もなければ日本食に必要な調味料は何もなかった。

ケチャップにウスターソース、塩、固形スープ。

香辛料と缶詰は豊富に揃っている。

こういう町でカツオ節や干し昆布を探そうとしている自分が愚かに思えてきた。

まずは頭を切り替える。ジェロに婆さんはどういうものだと咀嚼できるのかを尋ねてみた。

「そうだなあ。柔らかいパンだとか、細かく刻んだ鶏肉とか。食べたことはないと思うけど、店で出してたミートローフだと一口大に切ってやれば食べれると思うよ」

挽肉を使った料理。それは外せない。ハンバーグだとどうだろうか。

マーケットをぐるりと回って、鮮魚売り場にさしかかる。魚か・・・魚のすり身なんか良いかもな。

ふと見ると、赤いスナッパーが大量に売られていた。

american red snapperという、日本のフエダイによく似た魚だ。

「この魚はよく獲れるのかい?」そばにいた従業員に尋ねてみた。

「ああ、年中通して獲れるんだが、ここ最近は豊漁だねえ。買い得だよ。5匹で3ドルでどうだい」

私は10匹5ドルに値切り、買うことにした。

買った魚はジェロが袋に詰めて持ってくれる。



野菜売り場でチコリーとほうれん草、生姜を買い、マーケットを出ると酒屋を覗いてみた。

酒棚をじっくりと確認してみたが、日本酒は1本も置いていなかった。

店の奥に居た老練の店主にあいさつすると「サリーはいつ退院するんだい?」と訊かれた。

「まだ当分はかかりそうです」
「そんなに悪いのか?」
「じっくりと直してもらって。せっかくですから良い休養になるんじゃないかと」
「それもそうだな」
私はひとつ思いついて訊ねてみた。
「料理長はここでよくテキーラを買ってたと思いますが、月に何本くらい買ってたんでしょうか?」
「ええ?そんなには買ってないだろ。たまに来て、そうだな2~3ヶ月に1本買うくらいだったよ」
「え?そうなんですか?」
「今度サリーに言っときな。毎月5本は買うようにってな」

メヌドにテキーラを隠し味に使ってたというのは間違いだったのだろうか。

確かに、そうしょっちゅう料理に使っているのなら空き瓶がごろごろしているはずだ。

これはチェンに一杯食わされたのかもしれない。



店に帰り着くと、買ってきたものをワゴンの上にあけ、スナッパーを1匹取り出して調理台に載せ、残りは冷蔵庫にしまわせた。

包丁で魚の鱗を落とし、3枚卸にして身の小骨を抜いていく。

皮を剥ぎ、ざく切りにしてフードプロセッサーに放り込む。

骨はぶつ切りにして、鍋に入れて出汁をとる。

灰汁を丁寧にとって、十分に出汁が出たところで火を落とし、刻んだ生姜を加える。小鍋にスープを移して火にかけ塩で味付けし、煮立ちかけたところで団子状に丸めたすり身を落として行く。

チコリーとほうれん草を適当な大きさに切って鍋に浮かべ、ひと煮立ちしたら火を止め、深めの皿に盛り付け、ジェロに食べさせてみた。

「何だか味がしないよ」
「濃い味付けになれてると薄味に感じるだろうな。スープを飲んでみな」
「うん。ああ、薄味だけど、俺は好きだ。ばあちゃんもこれだと喜んで食べるよ!これが日本の料理かい?なんていう料理なの?」
「すり身の潮汁だ。吸い物のひとつだよ」
「スイモノ?今度ばあちゃんにも作ってやってよ」
「ああ、良いとも。だけど本当はもっと旨みがあった方がいいんだが」
「ウマミ?」
「そう。旨みだよ」



ダメ元でマーケットを覗いてみたら、思わぬ発見をしたという気分だった。

だが、これじゃあダメだ。ジェロも最初に言ったようにこの町のひとたちの舌には、塩と魚の出汁だけじゃ薄味に感じてしまう。

強烈なインパクト。十分旨みが引き出された味。それが感じられなければ客を惹きつけることは出来ない。


それからの私は、スナッパーを使った料理をアレンジしながら、マーケットで安い食材を買ってきてはいろいろと試してみた。

だが、そのほとんどがムダに終わった。


そのうちになにをどうしていいのか分からなくなり、マーケットのある商店街をうろついた。

そのとき、偶然チェンに出会った。

「あら、トーキョーじゃないの。聞いたわよ。あんたジェロのばあさんのために食べやすい料理をつくるんだってね」
チェンとジェロは同じアパートに住んでいるのだから情報は筒抜けだ。

「チェンさんは、仕事は見つかったんですか?」

「ああ、たいした賃金じゃないけどさ。従姉妹の店を手伝うことにしたよ。まあ人助けのようなもんさ」

「親類がお店をしてるんですか?」

「ああ、中華材料なんだけどね。乾物とか干物とか地味なものを売ってんだよね。これが」

「え!中華食材ですって?」

私は思わずチェンに飛びつきそうになった。

「何だよあんた気持ち悪いね」

「チェンさん、ぜひそこへ案内してくれませんか!」

「嫌だよ。今、そこから帰って来たのにさ。また戻んなきゃならないの?」

「お願いしますよ。人助けだと思って」

チェンはしぶしぶ私を従姉妹の店に連れて行くことを承諾してくれた。




(以下次号)