警察署を出て、バスに乗ろうとしてやめた。

先ほどのアラン刑事の言葉が頭の中を反芻している。

ジムの疑いは彼の勝手な思い込みだと安心しかけたその矢先に、さらに不安が覆いかぶさって来たような気分だ。

『犯人は、この町のどこかに潜んでいる』

確かにそうだ。

何も盗めずに逃げた犯人が再び舞い戻ってくる可能性というのはどれくらいあるというのだろうか。

アランは犯行手口について、こう分析していた。

痕跡を残さないほど緻密な錠破りの腕を持っている。

その反面で物色方法が雑で稚拙なこと。

予め逃走口を用意せず、計画性に乏しいこと。

むやみに発砲する短絡的な性格であること。しかも躊躇せず相手に向けて撃ち、命中させていることから射撃に習熟し過去に何度か人を撃った経験があると思われること。

軍隊経験があるか、もと警官である可能性も高い。ということだった。

もと警官・・・・・。

ジムがもとの仲間をかばって、私に濡れ衣を着せようとしているのだろうか?

だとすると、ジムは真犯人を知っていることになる。

いや、待てよ。ジムは私に『お前が犯人を手引きしたんじゃないか』と、こう言ったんだ。あくまでもお前は共犯者だろというニュアンスだった。

それじゃあジムはやはり犯人を知らないのだろうか。

それよりも心配なのは、サリーが狙われているかも知れないということだ。

病院にいるからといって安心できないし、むしろ不特定多数が出入りする病院は危険かもしれない。だが何が出来るというんだ。病室に泊まり込んで警戒することなど出来ないし、看護婦にそう言う情報を報せた途端、回復も待たずに病院を放り出されてしまうだろう。

ただのストア強盗とは違う執念深さ・・・ただの強盗じゃない。

いったい、何が目的だったんだ?やはり金だろうか。

いろいろと頭を巡らすと混乱してくる。

気付くと、バス停ふたつ分の距離を歩いていた。

目の前のバス停に歩み寄ったとき、タイミングよくダウンタウン行きのバスが来たので乗り込んだ。





ジェロは、この日、私の家庭教師が中止になったことで、友達と遊びに出かけていた。

それで、チェンの部屋を訪ねると不機嫌そうな表情でチェンが玄関口に現れた。

私が料理長から未払い分の給料を預かって来たと言うと、即座に上機嫌になり、笑顔で私を居間に通してくれた。

テーブルの上には求人チラシが雑然と散らかっており、チェンが職探しをしているのが分かった。

「ご覧のとおりよ。もうこの年になって仕事を選んでる場合じゃないんだけどさ。きつい仕事はムリだからね」
チェンは私に椅子を勧めると、テーブルの上を片づけるでもなく、キッチンから缶ジュースを持って来て私に差し出した。

私は料理長から言われた通り、チェンに半月分の給料を手渡すと、「もうあの店では働かないんですか?」と訊いてみた。

チェンは私から受け取った紙幣をその場で2度数え、3度目を数えようとしてやめ、「何回数えたって増えやしないわね」と言って、それを折りたたんで着ていたカーディガンのポケットにしまい込んだ。

「サリーにはずっとお世話になったけどさ。いつ再開するか分かんないじゃない。利き腕を撃たれたってのは、あんたもう命取りだよ」

「料理長にも話してみたんですが、僕が料理を作ってみようかと思ってるんですよ」

「やめときなよ。そんな簡単なもんじゃないよ。あんたにどれくらいの経験があるのか知んないけどさ」

「それは分かってます。でも日本の居酒屋で3年働いた経験があるので、一通りの料理は作ることが出来るんです。その日本の料理をこの町の好みにアレンジして・・・」

「ムリムリ、あんたも分かってるはずだよ?あの店がもってるのはサリーのメヌドがあるからなんだ。それ以外の料理なんて誰も食べたがってないのさ」

「そのメヌドなんですが、チェンさんはレシピをご存じないですか?」

「知らないね。そんなに知りたけりゃ、サリーに直接訊いてみるといいじゃない」

「料理長が退院すれば、手ほどきは受けるつもりです。入院中の今、レシピだけ教えろというのも何だか・・・」

「そうだろう?だから何も今あせらなくても良いじゃない。今後のことはサリーが退院して考えれば良いことだし。アタシはそれまでレジ打ちのバイトでもして声がかかるのを待ってるよ」

「それまで僕はどうやって食べて行けば良いんでしょう?」

「あんたも仕事を探しなよ。若いんだし、体格も良いんだから、仕事だっていくらでも・・・・そうか、あんた移民だったね」

「移民じゃなくて、旅行者です」

「どっちだって一緒さ。そうだったねぇ、そう簡単には仕事に就けないかあ」

チェンはそう言うと黙り込んでしまい、求人チラシを手に取ると小さな独り言をつぶやきながらいくつかのチラシをあれこれ眺め始めた。

「ねえ、チェンさん。この町の人に好まれる味って、どういうのでしょうか?あのメヌドがお客さんを惹きつける魅力って・・・」

「まだそんなこと言ってんのかい?私に分かるもんかね。サリーだってそんなに長くは入院してやしないよ。出てきてからじっくり手ほどきを受けなよ。それまでは預かったその店のお金で辛抱しときゃ良いだろう?それが出来なきゃ旅に出るか、日本に帰えっちまえば良いじゃない」

「僕はそれで一時しのぎは出来るかもしれない。でもサリーはどうなるんです?退院しても腕が利かなきゃ料理も出来ないんですよ。サリーが退院したときお金は全部僕が使い果たして、その上姿を消してたとすると、サリーはどう思う?」

「・・・・・」

「僕はそんな恩知らずにはなりたくない。サリーが復帰するとき、その土台作りくらいはしてあげとくべきじゃないんですか」

「いい加減にしとくれよ。そんだけ言うんだったらやりゃあ良いじゃないの。どうせ1週間もすればサリーは退院してくるんだからさ。それまで何が出来るか、あんたが自分で納得いくよう精いっぱいやりなよ。だけど、アタシは手伝えないよ。タダ働きはごめんだからね」

「分かってます。でも何でもいい。あの店の味で客を惹きつける隠し味でもなんでも。知っていたら教えてほしいんですよ」

「隠し味たって・・・・そういや、サリーはね、テキーラを少し垂らすんだって言ってたことがあったわ」

「テキーラ?フランベにして?」

「詳しいことは知らないよ。ソースに混ぜてたんじゃないのかい?」

厨房で料理長が鍋を振るう場面は何度も見てきたがフランベして炎が立ちあがったのは見た記憶がない。いや・・・一瞬そういう場面もあったような。

料理を覚えようと思って観察してなかったのが悔やまれる。

それ以上、食い下がっても、チェンは邪険にするだけで「もう良いだろう。アタシは仕事探しで忙しいから」と言われて追い出されるように家をあとにした。








店に戻り、厨房の椅子に腰かけて策を練る。

これと言ったものは何も思い浮かばない。

和食を西洋人好みにアレンジするということが無謀なのか?

西洋人は肉を好む。

すき焼き、しゃぶしゃぶ、トンカツ、豚の生姜焼き、鶏のから揚げ・・・・こういう料理を一度出してみて反応を窺ってみるのも手だ。

だけど、材料が揃うだろうか。

トンカツだったら出来そうだけど、トンカツはもともとポークカツレツだから日本食として出すのは抵抗があった。

いや、待てよ。何も日本食にこだわる必要はない。メヌドに似たような料理で良いんだ。だからそれはいったいどういう料理だ?人を惹きつける旨さって何だ?

テキーラ・・・・テキーラ・・・。

どの程度の量を使ってたんだろう。


調理台の上にある棚に手を伸ばし、テキーラの酒瓶を掴む。

半分ほど残った液体は淡い琥珀色を呈していた。

じっとその液体を眺めていても何も分からない。

調理台に背を預け、食器棚に視線を投げたとき、一瞬妙な違和感を覚えた。

ちょっとずれてないか?

犯人は食器棚をずらそうとでもしたのだろうか?

食器棚と、その隣にある戸棚には警察が指紋採取をしたあとが黒ずんで残っており、それは光の加減で白く光って見えた。

犯人がここに入り込んで物色していたんだ。そして料理長を撃った。

ふと、あのジムの疑り深い、青い視線を思い出した。

料理長が狙われている。その可能性はどこまで信じたらいいのか?

『自分の身は自分で守る。それがこの国のルールだ』

アランの言葉が蘇る。


そのとき外で小さな物音がして勝手口に人の気配がした。

ドアノブがゆっくりと回る。

私はとっさに調理台の上の包丁を手に取った。急激に鼓動が早くなる。





(以下次号)