坂を上り詰めると、そこは10アールほどの広場になっていて中央には平たい大きな石があり、いつもは子どもの遊び場になっていた。

日の暮れかけた今は2組のカップルが石に腰かけたり、もたれかかってそれぞれの世界を楽しんでいるように見えた。

私は大きな樫の木の下に腰を下ろし、その頼もしい幹に背中を預けた。

目の前には運河がゆっくりと流れ、鮮やかなオレンジ色に燃える夕陽が水面に照り映えていた。

アメリカならではの雄大な景色だ。

この景色ももうすぐ見納めになる。







さっきジムから聴いた言葉が頭から離れない。

『お前が盗人を手引きしたんじゃないか?』

そんなことはない。なぜ僕がそんなことをする必要があるんだ!

料理長にはお世話になってるし、宿付き食事つきで給料までもらって感謝してもしきれない。そんな恩人をどうして襲う必要があるというのだ!

そう言って、必死に誤解を解こうとしたのだが、ジムは冷たい目でじっと見つめるだけで、私に喋りたいだけ喋らせると、「どんな弁解も通用しない」と言って言葉を切り、私の反応を楽しむように黙り込んだ。
私がうろたえて狼狽の表情を見せると、にやりと笑い「そういうこともあるという話だ」と言った。

「お前は東洋人でしかも旅行者だ。家族もいないし身軽な立場だよな」
「それはそうだけど、でも僕には理由・・・そうだ。動機が何もないじゃないか!」
「サリーからはいくらもらってるんだ?」
「週に20ドルです」
「フン、ここじゃ学生だって時給5ドルは稼いでるんだぜ。そんなはした金でこき使われて、お前朝から市場に買い出しまで行ってるそうじゃないか。ディナータイムも最後までいるんだろ?いったい何時間働いてるんだ?」
「・・・・」
「ざっと考えても10時間は下らないよな。不満が噴出したっておかしかねえ話だ」
「それは違う!最初はひと月無償のはずだったんだ。それを前倒しで給金を出してくれてる。僕はそれを感謝してる」
「ほらみろ、最初っからタダ働きさせるつもりだったんだな。ひでえ野郎だよな」
「ちょっと待ってください。僕は不満はなかったって言ってるじゃないですか!」
「フン、なるほど。日本人は権力者に従順だというわけか。俺たちには理解できない話だな。まあ動機は充分あると考えなおした方がいいぞ」

思わぬ疑いの眼に睨まれて気持ちは萎縮しきったままだ。まさかこの白人警官は本気で私のことを疑っているのだろうか。
とにかくこの窮地を脱するためには、私が犯人じゃないということを分からせなければならない。どうしたらいい?

私が一連の強盗事件の一味だとは違うことを証明する手立てはないのか?

そうだ。先週この事件は1ヶ月前から起きていると、このジム本人が言ってたじゃないか。その頃私はまだスチーブンの農場にいた。

そのことをジムに言うと、あっさりと否定された。
「ストアのホールドアップと今回の事件は別物だ。営業中の店に押し入って銃を突き付けて金を奪うのとは違う。今度のは忍び込んで金を盗もうとしてる。たまたまサリーに見つかって逃げるために発砲したんだ。手口が全く違うのさ」

私は頭をフル回転させる。もう寝不足などとは言ってられない。

「もし、僕が手引きしたとして、どうして表玄関を開けとくんですか?勝手口があるのに犯人を堂々と表から入らせるなんて人目につくし無謀だ」
「そこがお前の狡猾なところなんだよ。表から堂々と入れて盗みだけさせて表から堂々と逃がす。あとから鍵を掛けとけば誰にも気づかれない。そうじゃないのか?」
「だったら、どうして犯人は金庫を探し当てていないんですか?僕が手引きしたなら一番にそこを狙うはずだ」
「ただ間抜けだったんだよ」

だめだ。何も言ってもムダなのだろう。

ジムは頭から疑ってかかっている。このままじゃ犯人にされてしまう。

ものが言えなくなり、しばらく黙って睨んでいたらいたらジムがこう言った。

「ムキになるなよ。さっきも言ったように、そういう話もあるってことだ。疑われたら終わり。まあしばらくは襟を正して暮らすこった」




夕陽が運河に沈んでいく。

ジムが本気で私を疑っているのかどうかは分からない。でも、この町で疑われたら最後。有無を言わさず収監されて、その間に滞在ビザが切れてオーバーステイになってしまうのだ。
この国で前科が付くというのはどういうことになるのだろう。このまま犯人にされて刑務所送りになり、出所後は仕事もなく日本にも帰れず、ホームレスとして物乞いをしながら一生を終えるのか。

風が冷たくなった。徐々に夜のとばりが降りていくのを眺めながら、日本に居る家族のことを思い出していた。



私の故郷は沖縄だ。

沖縄県が本土復帰した1972年まで沖縄はアメリカの施政権下にあった。

大戦後から返還まで沖縄はアメリカ合衆国だったとも言える。

米軍基地のそばに住んでいた私の家族は、米兵相手の店で働いていたし、友達の中に米軍属の子どもたちも多く、幼い頃から英語が日常語だった。私は中学生になると基地の中に在るPXで働き始め、買い物をした米兵の荷物をハウスまで運び込んだり、家政夫に近い仕事までこなしていた。

米兵は傲慢で横柄だった。日本人などヒトと思ってない様子で、とくに黒人兵は酷かった。
家に荷物を運ばせると、冷蔵庫の中の整理からバスルームの掃除までさせられた。
チップは床に投げつけられ、冷蔵庫の傷みかけたような古い食材を恩着せがましく持ち帰らせる。

それでも、中には紳士的な兵士もいて、気に入られると名指しで荷物運びの依頼があり、丁寧な仕事をすればチップも弾んでくれたしランチをおごってもらったこともあった。
そういう親切で友好的な兵士から拳銃の撃ち方も習った。

米兵とは言えども、勤務外は官給品は勝手に扱えないらしく、私物の拳銃で手ほどきを受けた。

時代はベトナム戦争も終結したころで、やがて本土復帰が具体化してくると、それを推進するための集会が各地で開かれるようになり、それに反対する学生運動が激化していった。

基地への立ち入りも制限が厳しくなり、本土復帰後は道路交通法をはじめあらゆる法律が日本式に改められた。通貨もドルから円に変わり沖縄は琉球政府から沖縄県になったのだ。

1974年に私は九州の大学に進学し、卒業を前にアメリカ旅行を敢行したのだった。

生まれた時からアメリカに接して来た私だったが、沖縄のアメリカじゃない本物のアメリカを見てみたかったのだ。



だが、ここにきて私は今、強盗犯人の濡れ衣を着せられようとしている。

辺りは完全に日が暮れて真っ暗になっていた。

立ち上がって周囲を見渡すと、もう誰もいなかった。

坂道を下りながら、この先どうしたら一番良いのかを考え込む。

何も良い案は浮かんでこない。料理長がいない今はレストランでは働けないし、他に雇ってくれる場所があるかどうか。住み込みで働いている以上よそで働くならいつまでも住み続けるというわけにはいかないだろうし。

浮かない気持ちを抱え込みながら店の近くまで戻ると、玄関先に人が立っているのが見えた。



ジェロだった。



(以下次号)