おい、ボヤボヤすんな‼️

大声で怒鳴られて厨房を飛び出した。

ランチタイムだ。客席はあらかた埋まっている。食べ終わった客の食器を片付けてテーブルを拭き上げる。

ちょっと良いかしら?

呼ばれて、その客のオーダーを取る。

おい、まだなのかい?

客の催促を受け、少々お待ち下さい。と笑顔で応え、厨房へと駆け込む。

厨房は戦場だった。ムッとする熱気と脂の焼ける臭いのなかで鍋を振るう音がガンガンと鳴り響いている。鬼の形相の料理長に大声でオーダーを告げる。

返事がないので届いているのか不安になり、もう一度オーダーを告げる。

聞こえてらあ‼️それともダブルの注文か?

がらがら声の料理長が叫ぶ。

午前11時から午後2時までのランチタイムが終わると、クタクタだ。まさに精も根も尽き果てる。

客のいなくなったテーブルに寄りかかっていると、同僚のチェンが賄いを持ってきてくれた。
「トーキョー。大丈夫か?」
チェンは中国系の女性でもうすぐ還暦だ。
クリスチャンで英語名はグレースというらしいが本人はそう呼ばれるのを極端に嫌っている。
夫は朝鮮戦争で戦死し、家には3人の息子とその家族が一緒に住んでるらしく、時々店の食材や客の食べ残しを無断で持ち帰る道徳観念の乏しいばあさんだ。

店にはもう一人ジェロという黒人の少年がいた。ランチタイムだけのアルバイトで、その時間が終われば慌てて学校へと走って戻る。

この店を仕切っている料理長は、父親がメキシコ移民で、本人は中国人とのハーフだと言っているが、ホントはインディアンの子供だと言う噂もある。

常連客から酋長と呼ばれることもあるが、本人は怒りも否定もしない。
言葉づかいが荒く、人当たりは良くない。

「この店のメヌドが旨くなかったら、誰も来やしない」誰もがそう言う。

メヌドというのは、フィリピンのモツ料理だが、ここではメキシコ風にアレンジしてあり豚の内蔵を青唐辛子と一緒に煮詰めニンニクを効かせたこのレストランの人気メニューで、ほとんどの客がこのメヌドを食べに来る。

だから、客でごった返しても少人数で対応できるのだ。

ランチタイムが終わると料理長は一寝入りしてディナータイムに備える。

私たちも賄いを食べると、夕方の5時まで自由時間だ。

今日の賄いはランチ用の日替りスープに米を放り込んだオジヤだった。
残り物のメヌドをぶちこんでスプーンで掻き込む。

私はこの町で「トーキョー」と呼ばれていた。日本名は彼らには発音しづらいから実名をいちいち説明するのが面倒なのでトーキョーで通すことにしている。

「トーキョー、アタシは先に帰って家の用事済ませて来る。」チェンはそう言うと紙袋に調理で出たくず野菜を詰めこみ店を出ていった。
彼女がいると店から生ゴミが減って助かる。そう思うことにしている。

自分で食べた食器を洗い、冷蔵庫を覗いてディナー用の食材を確認した。

今夜の日替りディナーはミートローフだ。
昨日買い揃えた挽き肉は料理長が下味をつけた状態で間違いなく収まっている。

前に一度、チェンが鶏肉を盗んだことがあり、このときは料理長が烈火の如く怒り、チェンはクビになるところだったけど、それまでの働きが良かったことでクビにならずに済んでいた。

それ以来、今のところチェンが食材に手を出すことは無いが、私が必ず確認するようになったのだ。

このレストランは日毎に肉料理と魚料理を交互に出す。
明日はサーモンのバター焼きだから、これから魚の買い出しに行く。

町のマーケットは店から歩いて10分のところにある。
朝のうちに買い付けていた魚を受け取ると店に戻り、冷蔵庫の挽き肉を出して、代わりに魚を突っ込む。

あと1時間もせずに料理長が起き出して来るだろう。

午後の4時前から仕込みが始まり、夜の部は午後6時にオープンする。

私も仮眠を取るためウエイティング用の長椅子に横になった。









スチーブンの農場を出て、バスを乗り継ぎ、あちこち泊まり歩きながら1週間後にこの町にたどり着いた。

バス停の近くにあるこの小さなレストランで晩飯を食べてるとき、この店の従業員と料理長が大喧嘩を始め、大柄な料理長に若い従業員が叩き出されたのだった。

「あのやろう、恩を仇で返しやがって。だからイタ公は嫌れえなんでえ」
肩で息をつきながら、料理長は私のテーブルに向かうと「みっともねえとこ見せちまったなあ」と言い、私のバックパックをちらりと見て、「旅行者かい?」と訊くと、「その食事代は要らないから。悪かったな。騒がしい思いをさせたお詫びだよ」そう言って私の肩を叩いた。
反射的に立ち上がった私が「お金は払います」と叫び声に近い声を出すと、大柄な料理長は奇妙な生き物を見るような目付きで私を見返した。
「おいしい料理です。お金は払います。その代わり僕を雇ってくれませんか?」
「ダメだ」料理長はにべもなく断った。「旅行者は雇わないことにしてるんだ」
「短期間で良いんです。さっきの従業員の穴埋めをしますから」私は必死だった。
レストランで働けるなら、食べることに困ることはない。賃金が安くとも3食。いや、2食でも有れば生きていける。

「調理は出来るのか?」
「家庭料理くらいなら」
「中華料理か?」
「いえ、日本料理です」
「日本の食べ物なんか、ここじゃ出せねえ。スーシとかあとは何だか知らんが、そういう物が作れても役には立たんよ」
「一生懸命働きますから」
私はしつこく食い下がった。前にいたとこで貰った給金は残っていたが、それが底を尽く日はそう遠くない。

料理長は、しばらく思案気な顔をしていたが、「ちょっと手を見せてみろ」そう言って私の両手を裏に表にしながらしげしげと眺めていたが、やがて「よし分かった。1か月だけ試験採用してやる。その間に正式に雇うかどうか決めさせてもらおう」と言った。
「ありがとうございます」
「ただし、その間は無給だ。その代り賄いは食わせてやる。2食昼寝付だ」
「それで十分です」
「ふん、よっぽど困ってるんだな。どこのホテルに泊まってるんだい?」
「まだ決めていません。さっき着いたばかりなので」
「何だと・・・・?」
料理長は私の体を頭からつま先までジロジロと眺めまわし、それから「今から宿を探そうったって、たぶん無理だろうな。とくにお前さんのような・・・」そこまで言うと言葉を切り、店の奥に向かって「おい、チェン、ちょっと来てくれ」と叫んだ。

すると奥から白髪交じりの髪を後ろで束ねた東洋人のばあさんが現れた。
「なに?無銭飲食なの?」
「違う。今日からうちで働いてもらう・・・えっと、名前は何だ?」
「ユキヒデです。シマブクロ・ユキヒデ」
「何だって?」
「ユ・キ・ヒ・デ」
「面倒だ。今日からジャパンにしろ」
料理長がそういうと、チェンが「ジャパンなんてバカみたいな名前じゃない。せめてトーキョーくらいにしてあげなよ」
「トーキョーか。そうだな。お前は今日からトーキョーだ。文句有るか?」
「いえ、それで良いです」
「ところでマスター、ジャンはどうするのさ。この子雇ったって、また舞い戻ってくるんじゃないの?」
チェンは、さっき追い出された従業員のことを言っているのだろう。
「店の金に手を出そうとしたヤツだ。おめおめと帰って来れるか。今度来たら警察につきだしてやる。それより、こいつは宿無しなんだ。お前さんのアパートに空きがあるだろ?しばらく泊めてやれよ」
「ああ、あいにくだけど、全部埋まってるわ。大家がいくつか部屋を持ってんだけど、お金がないとムリね。あんた月に100ドル払えるの?」
「100ですか?それはちょっと・・・」
「じゃあ、この店の2階にでも住めばいい。散らかってるが、お前一人が横になるくらいのスペースはあるだろう」
「助かります」
「ああ、こいつはチェンだ。グレース・チェン様だ。うちで一番長く働いている・・・たって、もうこいつしか残ってねえのか。まあ働きもんだから見倣えよ」
「よろしく」
手を差し出したが、チェンは握手を返さなかった。
「扱いが雑だけど、音を上げないことね」そう言うとぷいっと厨房へ戻ってしまった。

こういう感じで、私はこのレストランに職を得た。

1か月無給というのは痛いが、その間に別の働き口を探しても良いし、とにかく当座さえしのげれば、あとは何とかなるだろうと思っていた。

賄いはチェンと交代で作ることになった。

中国系のチェンは、何もかもが大雑把だった。小さいことを気にしないというタイプではないが、男勝りなところもあるし、さっぱりした性格だった。

鶏肉をくすねた件にしても、本人に悪気があるわけではなく、「どうせ余るんだから」という短絡的な考え方で起こしてしまった事件だった。



1か月間は無給で働く予定だったが、働き始めて3週目の朝、料理長が私に封筒を差し出し、「お前も何かと物要りだろう。しばらくは週休20ドルでどうだ?この先、働きぶりが良ければ昇給してやってもいいぞ」と言った。
封筒を覗くと、新品の10ドル札が2枚入っていた。

その日、ランチタイムが終わるとチェンが小声で言った。
「良かったじゃないの。タダ働きせずに済んで。サリーはああ見えて温情があるからね。やめてったジャンのことも気にかけてると思うんだけど、口に出さないから伝わらないでしょ。あんなだから誤解されちゃうんだよね」
料理長の名前は知らなかったが、チェンは彼のことをサリーと呼んでいた。
確かにサリーは口は悪いが、見かけほど傲慢な人ではないみたいだ。
宿代もとられず、3食付いて毎週20ドルもらえる。
このまま何か月もここで働いていたい。そう思ってしまうが滞在期間はこの先2か月もない。

それに、限られた滞在期間内に他の都市にも行ってみたい。
料理長には最初から短期間雇用と言ってあるので分かってもらえると思うが、よくしてもらうと情が湧いてくる。




ディナータイムは、昼ほど混雑することは無かった。

午後6時に店を開けても、客が来るのはまばらで、7時を過ぎなければ1組も来ないという日もある。

だから開店時間を繰り上げても良さそうなのだが、料理長は頑として開店時間を変えることが無かった。
チェンは、客をよその店に獲られるのが嫌なんだろうさと悪態をついていたが、おそらくそれが、彼の生活習慣なのだろう。

日替わりのディナーは、一応コース料理だった。
前菜代わりのサラダにスープ、メイン料理とパン。一晩に20組も客が来れば良い方で、儲けはワインの売り上げでどうにか出していた。

夜の8時を回る頃、ときどきパトロールの警官がやって来た。

彼らは制服のまま堂々と表出入口から入ってきて、通りから一番目立つ場所に陣取りディナーを平らげて帰る。金は払わない。
さすがにアルコールは出せないので、大きなマグカップにコーヒーを淹れて出すことになっている。
警官だからって、どうしてタダで食べさせているのか最初は分からなかったが、夜間は警官が立ち寄ってくれるだけで防犯効果があるんだと料理長に教えてもらい、納得した。
出来るだけ長く居て欲しいので、沸点に近いほど熱いコーヒーをたっぷりと提供するのだ。

警官は横柄な態度で遠慮がなかった。
客を品定めするようにじろじろ見るので、嫌がって帰ってしまうんじゃないかとハラハラしたが、客の方も慣れているようで別に意に介さずという感じだ。

客がまばらになったころ「おい、酋長!」と、連中の中でもひときわ態度のデカいジムという白人警官が料理長に声をかけた。

厨房から料理長が顔を出す。

「ちょっと良いか」そう言われて料理長がジムの傍まで近づいて行った。

「昨夜、2ブロック先のストアがやられた。知ってるか?」
「はい。ゲイリーの店でしょ?500も盗られたって」
「そうだ。先月から三日置きに起きてやがる。金額が大きいからしばらくはおとなしくしてるとは思うが、かえって味をしめたかも知れん。用心しとくこった」
「どんな野郎なんです?」
「若い黒人らしい。覆面をしてたから人相は分からん。銃を持ってるから気を付けろよ」
「はい。ありがとうございます」

警官たちが帰ったあとで、「何が用心しろだ。お前らが仕事しねえから強盗もつけあがるんだ」と料理長が吐き捨てるように言った。

「うちなんか狙われっこないよ」チェンがしたり顔で言う「ああいうのはね、すぐ手元に現金がある店が狙われるんだよ。うちに強盗が入ったって、こっちが金を揃えている間に強盗がしびれきらしちまうよ」
「でも、もしものときがありますよね。何か防犯できるとことはしておいた方が」私がそう言いかけると、料理長がそれを遮って「うちに強盗が入るだと?俺がいるかぎり、そういうことは起きないね」と言った。

確かにこの猛牛のような料理長を相手に小金をせしめようとするのは正に自殺行為だ。









以下次号