著者: 村上 春樹 タイトル: 海辺のカフカ〈上〉

2002年、「海辺のカフカ」が本屋で大量に平積みされているのを見たとき

この本を読むなら、その前に村上春樹さんの本をいくつか読んでおきたいな・・・と思って

国境の南、太陽の西」と「スプートニクの恋人」を読んだ。

「海辺のカフカ」を読むために、読んだ2冊だったのだが、どうしても

村上さんの書く物語が好きになれず、その時は「海辺のカフカ」にたどり着くことが出来なかった。

 

それが先日、「海辺のカフカ」の文庫化の新聞広告を見て

なんとなく読んでみたい気持ちになった。今なら読めるかな、とそんな予感。

予感は大事にしたい。

本には人それぞれに、“読み時”というものがあると私は思っている。

そんなわけで、

嗚呼、今なのかもしれないな・・・という予感を確かめるために、図書館で本を借りた。

(借りてきたのはハードカバーだが。)

 

村上さん、というと私はすぐにレイモンド・カーヴァーを連想する。

一番最初に読んだ村上作品は「日出る国の工場」だったが、それ以降は村上作品よりも

彼が翻訳を担当している、レイモンド・カーヴァーの作品ばかり読んでいる。

カーヴァーの作品はそのほとんどを読んでいるが

中でも一番のお気に入りは、やっぱり一番最初に読んだ「ささやかだけれど、役にたつこと」。

 

村上さんの書く言葉、文章はとても好きだ。

でも村上さんが書く、物語は好きになれなかった。

理由ははっきりしている。

彼の物語に出てくる女性がみな、危うく、弱く、そして儚いからだ。

私からすれば彼女たちは不甲斐なく、私はそのことに苛立ちすら感じる。

彼女たちを理解できない、というよりも理解したくない。

それが

私と村上作品の間に存在する、大きな壁となっている。

 

そんなわけで、

翻訳家・村上春樹は好きだけれど、小説家・村上春樹は嫌いという

なんとも不思議な感情を私は村上さんに抱いている。

 

 *

 

本の内容からは離れるが、

この本「海辺のカフカ」を手にしたときの違和感について、少し。

おそらく本の厚みを押さえるためか、本の軽量化を図るためか、

あるいは本の単価を下げるためなのかは不明だが、紙が薄く、質感も通常のものと違っている。

おかげで400頁もあるのに

310頁しかない「ダ・ヴィンチ・コード」よりも本は薄く、軽く、そして安い。

安いことはいいことだが

なんというか・・・頁をめくる行為を楽しむことが出来なかったように思う。

めくり難さもさることながら、400頁の重量感をこの手で感じたかったな・・・残念。

 

(「海辺のカフカ」の感想は、(下)を読み終えた後で・・・)