GW最終日。。

 

 

 

最後の日には、まだ人の少ない朝を満喫したくて外に出ると・・ハナミズキも見頃です。

 

私の妹が5月生まれですが、爽やかなエネルギーに満ち溢れた5月のお誕生日を子供の頃はなんとも羨ましく・・という私は暑〜い7月。夏休みに入ってすぐだったので損した気分になったものです。

 

因みに東洋の暦の上では、4月は辰月、5月が巳月と呼びます。この辰・巳を方角で表すと「東南」を表します。東南の角部屋というと、朝日が入り、日差しも注ぐ穏やかな方角になりますね。季節と同じです。

 

と、少し脱線しましたが、本題です。

 

最近、自分の読む本や文章で気がついたことがあります。

 

それは、対談形式の文章や、その著者がつらつらと心に浮かぶことを書き綴ったような文体が、読者にとって、一番著者と繋がれるのではないかな・・と。

 

何かを聞いたとき、授業、講演、私はメモを詳細に取ります。

でもそれは、自分が理解したようにノートをとるわけで、本や、講演者、そのものではありません。自分のためにとっているから、それはそれでOKですが・・。

 

ただ、久しぶりに本を読んだら、たまたまそのうちのかなりの本が対談形式。生き生きとしているので、対談の息遣いや雰囲気など、その著者の「間」が読める。

 

もちろん、対談がいいかどうかは本の性質にもよります。

知識なら簡潔な方がいいでしょう。著者と対話するというよりは、知識を得るためだから。

 

ただ、知恵や生き方、コミュニケーションなど、目に見えないものに関しては、わかりやすく簡潔な、いわゆる「ハウツー本」だと一瞬わかった気になります。ただ、本当にわかった?というと、すぐに頭から抜けています。記憶するかのように頭で読んでいて、体に入っていないからです。

 

文章に現れていない部分にこそ、その簡潔に書かれている事実を支える真実があるからではないでしょうか。

 

答えのないような知識や知恵の場合、著者から出てくる真意を理解したくなります。その場合には、やはり、行間を読むことが必要になってきます。

 

それを表してくれるのは、「、」で表される著者の息遣いだったり、一見無駄に見える多くの言葉、例えば「えー」とか、不要な接続詞など・・それこそが大事だったりします。

 

私はよくノートをとります。あるとき、友人が一緒に行った講演のテープ起こしをしてくれたのですが、読んでびっくり!講演者の人柄や真意が生き生きと現れているのです。ノートと内容は同じようなもの。でも、何かが違う。

 

そう、テープ起こしには、講演者の人そのものが現れているのです。魅力的な人であればあるほど、何を話してくれるかより、多くの人はその人そのものに触れて感動しています。今の時代、ライブにひとが集まるのはそのせいではないでしょうか。

 

文字は簡潔に言葉を表してくれるツールにもなりますが、これからは目的を持って簡潔にまとまった文章よりも、その人の人柄が滲み出るようなものが好まれて行く。

 

生を削らない。

 

多くの人が今に生き始めて、本もライブの時代に入ったのではないでしょうか。

 

本は文字という、目に見える世界だからこそ、知識と智慧の二極化が目に見えて進行して行くような気がします。