ちょっとした新しいことをしていたら、
新しいことが始まった。
ほんの一センチ、視線をかえるだけ。
大きなものを変えたければ、自分の目先を自分の好きな方向にむけるだけ。
反対にいえば、今見ているもの、目先を変えることなく、
大きく物事をかえることはできないのかも。
今日は「禅」について知ったこと。
「禅」というと、私はどちらかといえば、礼を重んじる儒教と似たものと思っていました。
でも、禅寺や、禅の本を読むと、どうしても儒教とは遠く感じる。
先日のブログでもご紹介したあかちゃんのようなあり方、道教(タオ)を感じさせる禅・・
なんで禅のイメージってこんなに違うの・・・??禅ってなんだろう。
先日ご紹介した玄侑宗久さんのご著書「自灯明」でちょっとわかった
私の理解した範囲ですが・・・
禅は達磨さんが起こしたもの。禅には二派あるそうです。
五代目から六代目にうつるときに代表的なお弟子さんが二人いて、「神秀」と「慧能」という方で、のちに慧能が六祖となります。
神秀は非常に優秀で、とにかくまじめに努力しなければ悟りはひらけないと考えていたそうです。それが戒律を重視する戒律禅というものになり、儒教的な禅となります。これは後に北禅宗と呼ばれるそう。
一方の慧能は、正式な修行僧というよりも台所の手伝いだったそうです。でも、本質的なことがわかっていた。老荘思想によりちかい。これが南禅宗とよばれ、日本にはこちらが伝わります。
老荘思想「老子」にこんな言葉あるそうです。
礼を重んじる「儒教」に対し、「大道廃れて仁義あり」。つまり、大道が廃れたからこそ、仁義が盛んになってくる。心がなくなったから礼儀が必要になってきた。
老荘思想が重視しているのは、礼儀とか仁義とか生まれる前の無邪気さであり、だから、赤ちゃんのような無邪気さを尊ばれているそうです。
だから日本には南禅宗があったような気がします。
でも、江戸時代には、禅は戒律禅の方が色が濃くなっていったようです。
以前に「Tao of Pooh」という道教の本をご紹介しましたが、その本にも通じるものがあり、また、大好きなジャズ奏者のキース・ジャレットも禅が好きとか。
禅を知らなかったし、しらないから興味もあまりなかったけれど、共鳴できるものは時がくれば縁ができるのものなのかもしれない。好き、という時点でなにかが共鳴しているのだから。
好きなものが引き寄せられると、どんどん吸引力が増すのかもれない。
だったらすべてをのびのびと謳歌できそうな気がしてきますね