今日、以前何かで紹介されていた【リトルブッダ】を観ました。
感想はブッダのような悟りは開いていないので真の理解とは言いませんが、ふと湧き上がったことがあるのでそれを書こうと思います。
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私がもし、路上をさまよう貧しい人になった時、そんな状況でも誰かに《与えたい》と思うのだろうか?
思えるのだろうか?
そんな気持ちは湧くのだろうか?
目の前を歩く裕福な人に『私は貧しくて食べるものもありません。恵んで下さい。』と私は言うのではないだろうか?
『恵んでください。恵んでください。』と。
もしそこで食べ物を与えられたら、私はそれを誰かに分け与えるのだろうか。
もし私がその裕福な人なら分け与えた後『私は分け与える優しい良い人だ』と自慢げに思うのだろうか。
私に食べ物を分け与えられた貧しい人が、もしその食べ物を隣にいた貧しい人に分け与えた時その貧しい者も『私は分け与える優しい良い人だ』と自慢げにするのだろうか。
それともその貧しい者は一緒になって食べ物を頬張り『おいしいな』と同じ気分を分かち合うんだろうか。
私は目の前のパンを分け与えることは出来ても、分かち合って同じ景色を見ようとすることはしなかっただろう。
もしかすると、喜びを分かち合えないことは一番の不幸なのかもしれない。
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私が学生の頃、生まれて初めて都会に行きホームレスという概念を知らされた時、とてもショックを受けたのを覚えている。
これが私の住む同じ日本なのかと。
その後海外に行った際も同じような衝撃を受けた。
そして一緒に行った人に『見てはダメよ。お金を恵んでと言われるからね。』と厳しく言われた。
まるでそこに何も存在しない普通の日常のように振る舞う感じがとても違和感だった。
私は、とても悲しかった。
でもそのショックさと悲しいという感情はあっという間に何でもない日常に麻痺させていきました。
前に聞いたことがあります。
ブッタは修行中の僧侶に貧しい家ほど布施に回りなさいと言ったそうです。
貧しい人ほど与えることをしなくてはならないと。
自分がもし貧しい人になったとしたら私は人に分かち合うことが出来るだろうかとふと考えた時、自分の中に自分だけが得をしたい気持ちや、もし分け与えてもまるで私はあなたよりも偉くなったような見下す気持ちがあることに気付きました。
それが私の望む世界なのだろうかと。
それが望む人との関わり方なのだろうかと。
私の望む世界は、分かち合って一緒にうまいねって笑ったり、その瞬間の同じ景色を見たり、自分たちの幸せを語り合うことだと気付かされました。
分かち合うのは、たまたま私がそのとき持っていただけで、もしそこでまるで私が偉いなんて錯覚をしていたらそこで生まれるはずのその分かち合いの時に生ずるであろう『うまいね』という会話も、景色も、自分たちの幸せについて語る時間も全て生まれなくなってしまう。
現代の世界の縮図を見たような気がしました。
今日はとても大切な気付きを得ることが出来ました。
周りを見渡せば自分がどれほど恵まれ豊かさに埋もれているのか、埋もれすぎて多くを見失っているかを教えられた感じでした。
今世界全体も生まれ変わろうとしている中、自分にとって本当に望む世界はどんな世界なのかを全員が日常を通して問われているんだと思います。