マルバ(丸葉)は、鋸歯(きょし)がない、
という意味です。
植物の名前に、よく使われます。
けっして、
葉が円形、という意味でありません。
青梻(あおだも)は、難しい漢字ですが、
梻(たも,しきみ)は、
モクレン科のシキミを、意味しますので、
樒(しきみ)と、同じことです。
アオダモは、モクセイ科ですので、
樒と、全然、似ていません。
たしか、木材を水に漬けると、
青い蛍光を発します。
だから、アオダモですが、
タモは、東北地方のトネリコ属を表す方言
だったような。
花が美しいのですが、2週間後でしょう。
まだ、蕾(つぼみ)ですが、
早くも、待ち遠しい感じ。
材質が硬く、弾力性に富むので、
野球のバットに使われています。
そのことから、プロ野球関係のNPOが、
アオダモの栽植運動を、起こしました。
伐採のために、自生の個体が絶えかけたので。
おかげで、苗の値段が下がり、
民家の庭に、
よく植えられるようになりました。
花の時は、奇麗ですが、
葉っぱの観賞価値は、少ないかも。
落葉樹って、庭木に、あまり使いません。
桜もそう。
千利休の侘び寂びに、相応しくないとかで。
わざと、侘しく寂しくする演出ですから、
茶道は、趣味が悪い。
苦く、甘く感じられるお茶って、
大好きですけれど、千利休は戴けません。
オペラや歌舞伎や茶の湯やらの、娯楽は、
息抜きに良いのですが、
千利休のようなことを言い出すと、肩が凝る。
ほんとうに、肩の凝るブログで、すみません。
わたしは、精神の病気とされている人を、
助ける道があると、思っているので。
*** ***
このブログは、
livedoorのブログのジャンルの、
こころという部類に、放り込んでいます。
無所属が、ないらしく。
オウム真理教の死刑囚が、
処刑されるそうですが、
教祖の麻原彰晃氏が、
何について、考えていたかは、
よくわかります。
しかし、どのように考えていたかは、
知りません。
彼の考えの手順を、
読んだことがありませんので。
噂(うわさ)では、
ゴーラクナート(Gorakhnāth)の
ヨガを、学んでいたそうですが、
そのヨガの教祖の考え方が、
そもそも、ウワサのようにしか、
伝わっていません。
本人の著作と言われる口承の話が、
後の時代に、
書物に書き留められただけです。
ゴーラクナートは、13世紀の人なのに、
直筆の記述を残さなかったのが、
いかにも、インドらしい。
活版印刷が実用化されるまで、
世界の書物の99.9%は、
漢字で書かれたと、言われています。
エジプト人や、
インドヨーロッパ人は、
文字を、発明したにもかかわらず、
一般人は、文字で書かれた文章を、
残しませんでした。
活版印刷まで。
中国文化の文字好きは、出色ですが、
その中でも、日本人は、
活版印刷より前から、
江戸時代の都会の庶民が、
文字を知っていましたから、
諸外国と、比べものになりません。
樹木で作られた紙と、毛筆に加えて、
平仮名と寺子屋の普及が、
世界史の中で、特異でした。
仏教のお寺は、インド文化なのに、
当のインドは、13世紀になっても、
世界的な教祖の、筆跡も文章も、
わかりません。
そのインド人が、数学好きで、
コンピュータのプログラムが、
得意ですから、
日本のママゴトのような、
家庭的文化と、目指す所が違います。
家庭を蹴って、瞑想しろと、
ブッダやゴーラクナートは、
主張しました。
オウム真理教の、麻原氏の場合は、
当人の著作が、出版されていますので、
買えば、読めますが、
買ったことも、読んだことも、ありません。
ゴーラクナートのヨガは、
性欲とエステティックの関係を、
制御するための心得と、言われています。
世代交代のための性欲が、
個体ごとに備わっているので、
インドヨーロッパ人は、
性欲と、個体を識別するエステティックに、
生命の秘密があると、考えました。
インドのヨガだけでなく、
ヨーロッパのロマン主義も、そう。
顔が同じですから、仕方ありませんが、
農耕社会でなければ、戸籍のような帳簿を、
土地に刻んで、個人を特定したいと、
だれも思いません。
民族移動が日常の、インドヨーロッパ人は、
船に刻んで剣を求めませんが、
どこの誰かを、はっきりとさせるために、
アイデンティティ(identity)と
エステティック(aesthetic)を、
強く結び付けました。
エステティックは、ギリシャ語から、
ヨーロッパ全土に伝わった言葉ですが、
形容詞でなく名詞です。
ギリシャ語では、
感覚、とりわけ視覚的な知覚の内容を、
意味します。
ヨーロッパ全土に普及した頃には、
人体の外観に限定して、
使うことが、多くなりましたが、
建物や自然のエステティックのような
使い方も、通用します。
18~19世紀に派生して、
視覚的な美意識や審美眼なども、
意味するようになりました。
ロマンティックな価値観により、
限定された派生的な意味ですが、
バウムガルテン
(Alexander Gottlieb Baumgarten)や、
カント(Immanuel Kant)などの
美学が、
その使い方の、オリジナルです。
今でも、欧米において、
美意識や審美眼として、
使われる場合は、必ず、
美学の教養を、前提としています。
日本語の美顔術のような意味は、
ヨーロッパで聞きませんので、
日本だけの、
商業用のコピーと思います。
このブログでは、
視覚の規則性を決めるための、
なんらかの価値観として、
使っています。
古代ギリシャとドイツ美学を、
折衷したような使い方ですが、
欧米の平均的な使い方に近いと、
思います。
美的な尺度により、瞬時に、
容貌の優劣が知覚されるように、
わたしたちの知覚は、
特定の価値観を表示するための
道具であり、
けっして、知覚に依存しない事実が、
先にあるのでなく、
目や耳は、コンピュータの
ディスプレイやモニターのような、
液晶装置やオーディオ装置に、
似ています。
知覚は、表示や表現であり、
液晶装置やオーディオ装置に
表示するためのプログラムを、
エステティックと言います。
ラジオや、昔のステレオや、
テレビなどのように、
昔は、
コンピュータがありませんでしたので、
プログラムを組まなくても、
ハードウェアが、
特定のプログラム専用に
固定されていました。
ハードウェアのつまみを調節して、
一時的に使用しましたが。
今は、
プログラムを変更できる集積回路を
使っていますので、
コンピュータのキーボードから、
モニター画面やスピーカの、
映像や音声の、
ほぼ全てを、指定できます。
モニター画面やスピーカの
出力の内容を、
コンピュータが作るのは、
当たり前ですが、
昔のハードウェアの、
変更不能に固定されたプログラムでは、
映像や音を、
作ることが出来ないだけでなく、
ユーザは、
作ることを意識しませんでした。
コンピュータが実用化されたので、
プログラムを作ることが、
出来るようになりましたが、
人間の脳も、
目や耳の、影像や音声を、
プログラムできるような、
汎用性があるのに、
使い方を知らなければ、
脳に、コンピュータと同様の
機能があることを、
知らないだけでなく、
目や耳が、
モニター画面やスピーカなどの、
表示装置と同じであることを、
理解できずに、
受信装置であるかのように、
誤解します。
抗精神病薬を強制投与された人は、
知能が下がり、
知的障害になっていますので、
電波が飛んでくると、言います。
液晶画面やスピーカは、
受信装置でないのに・・・
目や耳は、表示装置であると、
何度、教えてあげても、
一般の人は、わかりません。
捜査機関や精神科医も、そうですから、
世も末です。
素粒子や空気が、
飛んで来たり、振動したして、
目や耳が、受信するそうです。
物理化学者のような、
一般の人は、そう思っています。
ロマン主義を信じた文化の、
名残(なごり)の時代に
生きている人たちのうちで、
第二次世界大戦や
ソ連の崩壊などにより、
ロマン主義が滅びたことを、
理解できずに、
ロマン主義と、そうでない考え方を、
識別できない人たちのことです、
一般の人って。
目や耳は、
プログラムされた規則性により、
脳や身体の内部の、
情報処理の状況を、
表示しているだけです。
生命は、ひとつながりなので、
すべての生物と、
内部情報が通じています。
遺伝子は、その1つですが、
素粒子が飛んで来るって、
思いたくなるように、
遺伝子でない内部情報も、
たくさんあります。
空間により
個体が分離されていると、見えるのは、
そのように
プログラムされているからです。
知覚の内容は、ただの表現なのに・・・
脳の、どこそこに、
空間や時間を制御する神経核があると、
言われるのは、
論理法則だけでなく、
空間や時間などが、
プログラムの規定であることを
言っているのに、
ロマンティックな人たちは、
その意味を理解できません。
知覚されるのは、
知覚の対象が、脳の外に存在して、
脳の機能に依存せずに、
知覚よりも先に、知覚の対象があると、
思っています、物理化学者は。
ロマン主義そのものです、現代科学は。
コンピュータの普及が、
何を意味しているのかを、
物理化学者は理解できません。
ロマン主義の作った日本国憲法により、
捜査機関や精神科医や
法律家や軍隊などの権力が、
人を殺したり壊したりしていることが、
問題であると、
このブログは言っています。
今は、エステティックの事なので、
話を戻しますが。
ドイツ人やフランス人は、
美的な視覚の価値観を、
エステティックと言いますので、
審美眼や美意識と、翻訳されますが、
古代ギリシャ人は、
美的と限定しませんでした。
わたしも、美と言われる価値に、
こだわらずに、
なんらかの規則性をプログラムして、
目というモニター装置に、
視覚と言われる内容を表示する仕組が、
大切と思います。
目を瞑(つぶ)れば、
事実のような視覚の対象が、
見えなくなると、思うのは、
単純な論理的ミスです。
目を瞑ったり、開けたりしていると、
知覚するのが、視覚ですから。
知覚しなければ、
目を開けているとか、
瞑っているとかと、
わからないでしょう?
そのわかりかた、
つまり知覚の仕方のプログラムを、
エステティックと言います。
とりわけ人体に関する視覚を、
言います。
原始人は、他の生物に似て、
文字や遺伝子や思想などを、知らず、
嗅覚が、人間特有に退化していましたので、
自分の外観を、他人と識別するさえ、
困難でした。
野獣の肉食は、実力行使でなく、
食べる振りをするだけで、
草食動物の筋肉が、麻痺して、
大人しくなります。
食べる振りがあるのなら、
死んだ振りもありますが、
振りだけで、事(こと)が決まるのは、
歌舞伎の型や、
音楽のリズムやメロディのように、
エステティックと、同じ原理です。
感覚器官は、振りや型を、
知覚しているだけでないかと、疑われます。
わたしたちは、
記号を知覚しているだけであり、
知覚の、対象や意味や実態と言われる事実は、
演劇や音楽や夢のように、
見世物にすぎないと。
チータに襲われると、
ガゼルやインパラの四肢が、
麻痺するかのように、使用不能になり、
筋肉が、無駄に痙攣するばかりに、なります。
ハイエナに集(たか)られると、
身体の小さなチータは、逃げざるを得ません。
すると、今まで、大人しくしていたガゼルが、
飛び跳ねて、走り出します。
ものすごく元気に、逃げて行きます。
どうして、
チータに咥(くわ)えられていた時に、
暴れなかったのでしょうか。
まるで、チータの牙から、
麻酔薬が、分泌されていたかのようです。
同じことを、人間も、行なっています。
理不尽な権力に、抵抗すれば、
精神病と、診断されます。
暴れても暴れなくても、
暴言を吐いても吐かなくても、
同じです。
興奮して暴れて、喚き叫び、
意味不明の言葉を発したと、
診断書に記述します。
刑事事件は、検察庁の取り調べが、
ビデオに録画されますので、
本人の否認する事件を、
証拠もないのに、起訴できません。
どうせ、無罪になりますから、
逮捕の理由が、事実無根であったと、
裁判で指摘されれば、
捜査員は、責任を免れません。
不起訴にして、裁判を避ければ、
診察は、ビデオに残りませんから、
嘘八百を、診断書に書き、
密室の中で、精神病と診断するだけで、
何年間も、
精神病院に閉じ込ることが出来ます。
明るみに出ないうちに、
抗精神病薬により、廃疾にして、
闇から闇に、葬り去ることが出来ます。
精神病のために、不起訴にしたと、
公文書に残るだけですから、
刑事事件の捏(で)っち上げが、
バレません。
精神病と診断すれば、
即時に、監禁投薬に及びますので、
1時間後に、痴呆になり、
2週間後には、
生涯、自力で回復しなくなり、
3ヵ月後に、
幸いにも、医師の恣意的な造反により、
抗精神病薬の依存症から
脱却できたとしても、
幼児期でなければ、
いまさら知能は発達しません。
投薬3週間目以降の、
人為的な知的障害は、
絶対に回復しませんので、
生涯の廃疾が、確定します。
人格の解体ですから、
事実上の殺人です。
捜査機関に捕まれば、
何も言わざるに、如(し)くはなし。
強制的な廃疾の、ほとんどは、
捜査機関による措置入院でなく、
家族による医療保護入院です。
家族が精神科医に相談すれば、
訴えの真偽は、調査されずに、
精神病と診断されて、
強制入院と強制投薬になります。
診断書に、
家族の発言だけでは、間に合わなければ、
精神科医が、独自の嘘を付け加えます。
診断の根拠を、本人に知らせずに、
事実を尋ねませんので、
いきなり、家畜のように捕まえて、
屠殺するだけです。
精神病院は、基本的に、
アウシュビッツと同じです。
それが、瞬時にわからない人は、頭が悪い。
ツィクロンBの代わりに、
昔ならロボトミー、
今は抗精神病薬を使いますが、
目的は同じなのに。
事実により、診断するのでなく、
捜査機関や家族の通報の通りに、
診断して屠(ほふ)ります。
捜査機関は、無条件に信頼されますが、
家族に定職があり、本人が失業していれば、
充分です。
精神症状があったという事実は、不要です。
どうせ、診断書に記述された本人の言動は、
捜査機関や家族からの聞き取りでなければ、
精神科医による捏造ですから。
精神病の症状とされる言動の事実や、
発言の内容の、妄想や幻覚などは、
精神病の診断とされる公文書の
記述にすぎず、検証されません。
診断基準の、妄想や幻覚は、
精神科の、架空の文学です。
事実は、妄想や幻覚の一種と、
識別できませんから、
ロマンティックな精神医療が
作られたのに、
事実と識別できるから、
近代的な精神医療が、成立したと、
誤解する人もいます。
事実を調査する能力のない医師が、
何を根拠に診断するかは、
知れています。
診断の根拠の嘘が、バレなければ、
問題ありません。
捜査機関による逮捕や起訴の根拠と、
同じです。
バレなければ、断定できます。
密室の中の、
証拠や証明のない出来事を、
事実でないと、
国民が識別できないので、
当局や医師は、
冤罪や精神病を、自由に捏造できます。
嘘八百でも、逮捕や診断ができると、
一般の人は、気づきません。
法律家や医師も、
教えられなければ、気づきませんから、
全人口の99.8%は、
生まれながらの色盲のようなものです。
わたしたちの知覚の内容が、
嘘八百でも、バレない典型であると、
幼児の頃に、気づかなかった人は、
おそらく、死ぬまで、
事実を識別できないでしょう。
世間が、事実を識別できないのなら、
事実に拠らないほうが良いと、
麻原君は、考えたのかも。
捜査当局や法律家や医師などと、
同じです。
サリンやロボトミーやツィクロンBや
抗精神病薬などは、権力の手段でした。
事実を確定する手順がないと、
瞬時にわかる人は、
ロマンティックな医術や法律の、
事実を基準にするナンセンスが、
何のためであるかも、
わかっているはずです。
事実は、手品の種(たね)を知らない人から、
料金や税金を徴収するための、
見世物のようなものですので、
手品の専門家でなければ、
種(たね)を知らないほうが、面白いけれど、
手品と、気づかないのでは、ぼったくりです。
ガゼルやインパラは、気づいていますから、
おとなしく、食べられます。
暴れると、痛いのでしょうか。
何度も経験しなければ、
わかりませんから、無理です。
チータに咥えられるのを、
何度も経験するなんて。
初めての経験で、
処女のように、失神するのかも知れません。
冤罪で逮捕されて、措置入院とか、
家族の裏切りから、医療保護入院とか。
キリストは、信者に裏切られて、
磔(はりつけ)にされましたから、
キリスト教の支配を批判したロマン主義者は、
キリストの痛みを、馬鹿にしています。
近代的な法体系や精神医学や医療に、
その気持ちが、よく現れています。
キリストは、イスカリオテのユダに
裏切られましたが、
ロマン主義は、その手口を、
法体系や精神医療に使いました。
ここは、咥えられて、
食べられなければ、絵にならないと、
インパラやガゼルは、知っています。
彼らは役者です。
キリストは、そう言いませんでしたか?
哺乳類は、エステティックにより、
文化的に、弱肉強食の序列が、
決まっているようなもので、
人間も同じと、思われます。
強い相手の爪に、引っ掛けられて、
のし懸かられると、
身動きが、できなくなるのは、
捜査機関に因縁をつけられているのに、
権力を信用するアホが、
被疑者のほとんどであるのと、
同じです。
彼らは、
エステティックを知っています。
権力に食べられる一般大衆の役を、
演じなければいけません。
ここで、うっとりしながら、
食べられるって、
インパラの台本に、書かれています。
刑事事件のほぼすべては、
冤罪でないかと、わたしは疑います。
少なくとも、法律家は、
そのように疑わなければいけません。
疑わしきは、罰せず、ですから。
ところが、戦争に負けて、
進駐軍に支配されると、
法律家のほぼ全員が、
麻酔を掛けられたように、
従順になりました。
日本人は、玉砕すべきであったかも。
自分でないのなら、
生きていても仕方ないでしょう?
それとも、自分でない生き方を、
知っていなければなりません。
どうせ死ぬのに、
何を惜しんでいるのか、法律家は。
日本の治安が良いのは、
礼節を尊び、
秩序を重んじる日本社会の
美徳でなく、
アメリカの言いなりになった法律家の、
不甲斐なさにすぎません。
根拠となる共通の事実がなければ、
こころを説いても、伝わりませんから、
生活の実態がわからないのに、
こころがあるはずもない。
食べる、寝る、という動作が、
共通でないかと、言いたくなりますが、
言葉の音(おん)は共通でも、
その意味が同じと、限らないように、
動作が共通でも、
その意味は違うかも、知れません。
動作にも、意味があると、言い出すと、
言葉と同じに、なりますから、
この世の中に、言葉でないものは、
何もないことに、なります。
統合失調症の人は、そう言います。
この世の中のすべてのことは、
何かの意味を持つ暗号であると。
記号論理学は、
まさに、そういう学問でしたが、
コンピュータは、その実践です。
精神医療が、
世の中の一々を、何かの暗号と、信じる人を、
精神病と診断するのは、
精神科医の仲間内でないから、
気違いに決まっていると、
言っているだけです。
ヨガは、そんなことを言いませんでしたが、
ロマン主義が、精神医学と称して、
そう診断したのは、
キリスト教団の仲間内の生き方が、
ヨーロッパに、普通にあったからです。
ロマン主義は、それに対抗しました。
統合失調症は、
狭い意味での精神病であり、
医者が、たんに精神病と言う時は、
狭い意味での精神病の意味です。
具体的には、
統合失調症と妄想性障害と、
その近辺の、躁うつ病などの病気です。
その近辺って、統合失調症の場合は、
主として抗精神病薬の投与を、
治療と称する病気です。
称するって、ようするに治療でなく、
精神症状を人為的に作るために、
強制的に抗精神病薬を投与して、
作られた精神症状を、
統合失調症の精神症状であると、
すり替えますので、
統合失調症の原因としての医療を、
治療と偽り、
患者や家族や世間一般を、
騙(だま)している、という意味です。
詐欺と、思うかも知れませんが、
手品と同じで、
タネ証(あか)しをしても、
統合失調症の、本人や家族は、
手品であることを、信じられません。
事実の場合と、同じです。
統合失調症の本人は、
抗精神病薬を投与されたせいで、
痴呆になっていますので、理解できません。
依存症になっていますので、
薬を飲まなければ、
妄想や幻覚が、必ず出て来て、苦しみます。
依存症になっている、ということは、
精神科医を信じるようになっているのと、
同じ意味ですから、
薬を飲まずに、精神症状がひどくなり、
苦しくなると、
精神病なのに薬を飲まなかった自分が悪いと、
自分を責めます。
精神科医を責めることが、出来ません。
もしも、医者を責めるようですと、
主治医は、薬の種類を替えます。
統合失調症の家族は、
もともと、理解できません。
だから、
本人を精神病院に入れることに、
同意しました。
多くの場合は、
本人を精神病院に入れるように、
家族が、精神科医に訴えたはずです。
その前に、本人が自主的に
精神科に通院していたのでしたら、
入院に際して、
家族が同意したのでしょうが、
家族が、
精神病院に連れて行ったのなら、
同意もへったくれもなく、
犯人は家族です。
精神病は、器質的に病気でないのに、
なぜ、病気とするか、
という精神医学や医療の、考え方を、
家族は、理解していません。
だから、本人を、
精神病院に連れて行ったり、
精神科医に、本人の非行を訴えたり、
本人の入院に、
同意したりしたはずです。
原因となる器質的な病変がないのに、
機能のみを、病気としているのですから、
化学物質を投与しても、
病気が治るわけがないのは、当たり前です。
しかし、抗精神病薬を投与すれば、
病気を作ることが出来るのは、確かです。
精神病には、脳の萎縮が認められますから、
抗精神病薬を投与すれば、
何らかの器質的な病変を作ることが出来ます。
どうして、健康な人に、毒薬を盛り、
精神と脳を、破壊しなければ、
医者は、気が済まないのでしょうか。
近代的な欧米の精神医療は、
19世紀のロマン主義の、
旧弊な道徳感覚や常識感覚を、
精神についての、病気と健康の、
仕分けの基準にしています。
つまり、悩や身体の器質に、
原因となる病変や薬物などが、
発見されないのに、
当人が病気を否定して、
治療を拒否しているにもかかわらず、
何の法律にも違反していない人を、
道徳や常識や流行などに
そぐわない言動から、
精神病と診断して、
強制的に入院させて、加療しました。
現代の統合失調症ですが、
当時は、
早発性痴呆と名付けられました。
ようするに、
老人の痴呆のような症状が、
青年に現れるとして、
隔離監禁の必要な病気と、診断します。
現代では、老人の認知症の9割に、
脳血管障害やレビー型や
アルツハイマー型などの、
原因となる悩の病変が
発見されていますが、
現代でも、
残りは、これと言った病変がなく、
たんなる老化でなければ、
若い時からの、頭の悪いのが、
年を取って、
目立つようになっただけです。
頭が悪いのを、病気とするなら、
頭の良いのと悪いのとを、測る尺度が、
自由な考え方の違いであったのでは、
嫌(きら)いな奴を、頭が悪いと言い、
因縁を付けて、実力行使に及んだのと、
区別が付きません。
19世紀のロマン主義は、
世間一般が、少数派の異端者の排除を、
正当化しましたから、
共産主義革命やファシズムや
ホロコーストなどに、至りました。
ロマンティックな考え方は、
行き着く所まで、突っ走らなければ、
気が済みません。
その典型が、精神医学であり、
クレペリンの早発性痴呆でした。
現代の老人性認知症は、
原因となる脳や身体の、器質の病変の発見が、
診断の第一ですが、
精神の検査も、自由な考え方の違いの、
揚(あ)げ足を取らずに、
記憶や見当識や足し算のような、
答えの明確にわかっている判断を、
被験者に問います。
けっして、事実の原因を、何と思うかなどと、
ロマンティックな精神分析のように、
答えの決まっていないことを、問うて、
妄想や幻覚や、措置入院の必要性などを、
導き出したりは、しません。
現代の精神科医は、若年の早発性痴呆を、
統合失調症として、継承しました。
思想や流行感覚の違いを、病気として
強制的に治療しなければいけないと、
診断した上で、
ロボトミーや抗精神病薬により、
不可逆的に、脳を破壊します。
まったく、ホロコーストと同じです。
ロマン主義の亡霊です。
しかも、自由な考え方の違いによる言動の、
具体的な証拠や証明が、ありません。
その言動を、妄想や幻覚などの、
精神症状であると、
ロマンティックに診断したにもかかわらず、
密室の中の、診察中の言動にすぎず、
当人が、言動を否定するにもかかわらず、
言動があったとする証拠や証明が、皆無です。
近代的な欧米の精神医療は、
マルクスレーニンの科学主義や、
ファシズムやホロコーストなどの、
ロマン主義の価値観により、
権力が、孤立した人を、
精神病と診断しました。
基本的には、ゴーラクナートのヨガと、
同じです、
ロマンティックな精神医療は。
繁殖力を崇め、
その反対を病気とします。
ロマン主義の生き残りの、
現代の精神科医の、
統合失調症の診断と治療は、
麻原彰晃氏がサリンを撒いた気持ちと、
ほとんど同じ反社会的な狂気です。
精神科医の精神が、
典型的な狂気であると、
わたしは、指摘して置きます。
法律家の能力に、疑問があるので、
埒(らち)が明かず、
第二次世界大戦の夜と霧が、
今も晴れないだけです。