本日のテーマ「他人から見える自分」
5月14日は母の日だった。もう成人して就職して何年にもなるというのに、毎年の恒例として母にプレゼントと手紙を送った。
昔からプレゼントを送ることが好きな子どもで、そのままに成長しているかのごとく今年も当たり前のようにプレゼントを送る。
母への感謝の気持ちに嘘はない。
けれど、書いている途中に母からよく見られたい思いがあるような気がした。母へ送った内容は普段からの感謝の気持ち、そして「こんな自分でごめんね」という内容。
例えば、母が食事を用意することについて。
例えば、母が買い物を担っていることについて。
自分がそういった家事の負担を母に追わせていることに引け目や、気持ち悪さを感じていたこと。それらを綴った。それは紛れもない本心だった。
例え自分の家事が終わっていたとしても、母が一人で家事をしていることに抵抗がある。
それは、自分の優しさではない。『自分は母の手伝いをして母の分の家事を担う存在ではなくてはならない』という使命感。
何故その使命感があるのかと考えると、ルーツは恐らく毎日のように怒られ泣きながら手伝いをしたことだろう。
きっかり母の決めた時間に食卓まで降り、そこから母の手伝いをする。母の決めた時間に降りなければ母は怒るし、例え降りたとしても、小学生の自分が何をすれば良いのかと問うと自分で見て考えろと怒る。
勿論、ありがとうと言われることもあったのだろうけれど、今思い返すとあの頃の手伝いには怒られた記憶しかない。
人は、自分がされた嬉しいことよりも嫌な事の方が記憶に残るらしい。
兎にも角にも、そんな環境だった。自分にとって手伝いというのは怒られるもの、強制力のあるものだった。
それと同時に母から言われる『一緒に暮らすのだから家事を分担するのは当たり前』『自分(母)がこんなにも一生懸命に家事をしているのに手伝おうとしないのか』と繰り返し言われるその言葉が呪いのように染み付いている。
現在、母が一人で家事をしている時に感じる気持ち悪さにはいくつか感情がある。
1:今自分が他の事をしていることで怒られるのではないかという恐怖
2:母に家事をさせている=自分ができていないことを母にさせていることへの自己嫌悪
こうして書き出すと、清々しいほどに母への思いやりが欠如していて笑いがおこる。結局自分はそういう人間なのだと思うけれど、そういった自己嫌悪も一つの話題として本日は書ききれないためまた後日にするとしよう。
ともかく、手伝いとしなくてはと自分が思う強迫観念や手伝いを嫌だと感じる理由が分かった。
2の自己嫌悪についても、良く考えればおかしな話だ。自分がどれだけ家事を担っていても、母が少し片付けをするだけで自己嫌悪がおきる。
これは「母を楽にしてあげないといけない」という強迫観念と繋がるところがある。自分が長女、自分が母を助けなくてはいけない、母を助けるのが当たり前、そういうことを父、母、父方の祖母から言われ続けていた。古い家でもないくせに男尊女卑がまかり通っていたから父と父方の祖母からの言葉は得に残っているように思う。
結局のところ、母が少しでも動いているだけで自分は出来損ないの烙印を押されることになる。
母はただ他の家庭のように当たり前に料理をしたりしていても、私はそれに自己嫌悪と申し訳なさを感じるのだから、もうどうしようもない。
勿論、家事に対する有り難さは忘れていない。自分も家事をやるのだから、普段自分がしていない家事でもどれだけの頻度でどれだけの手間がかかっているのかは分かる。
ただ、それに対する気持ちは感謝ではなくそれをさせてしまうことによる自己嫌悪。
これを少しでもマシにしなくてはと思う。将来結婚して、子供ができたときに自分が全てしなくてはいけないと思ってしまうか、それか母と同じように子どもに当たり前のように家事を担わせてしまう。
仕事柄それが良くないことは知っている。
ただ、これらをどうにかしょうと考えるには本日は自分の考えに時間を取られすぎた。
もう書き始めて30分が経つ。
これらの考えを直すためにどうにかしようと思考することも大切だが、無意識のうちに植え込まれていた強迫観念についてもまだ自分で受け入れきれていない。
今日は本日書いたことをしっかり自分の中で咀嚼し、飲みこんで行こうと思う。