数日前から感じていた苦しさが、涙となって流れてきた昨日の夜のこと。

 正直、とても焦っています。

 

 いま、自分を知る人たちは、この期間をどう捉えているのか。

 「もうすぐ死ぬんだ…」そう言えば、はっと顔色を変えて、人まで変わったように、人をだいじに扱う。そんな例がたくさんあることは知っていました。もちろん、全て本意でやっている訳でもありません。状況が変わるなら変わってくれた方が当然、ありがたいのですが、身内ほど密接なところにある人たちには、もう何をしようと通じない、という苦しい面があり、これまでの人生で感じてきた抑圧の数々が、色々なものを拒んでしまうということ。難しく厳しい、それが現実です。

 ひとつひとつの出来事を、敏感に、繊細に感じ取れる人たち。同じような人のところを頼れば、きっと求めていた幸せのうちの欠片ぐらいは、簡単に見つけられるはず、と思っていました。

 

 どこまでも、現実というのは甘くありません。

 事あるごとに、「当然の報いだ」と聞こえてくるような、理想と真逆のことばかりが起こっています。

 目の前で一人の人間が死に向かおうとしている。それを見せられることにとてつもない嫌悪感情・拒否反応を示す人…の方が、圧倒的に多いだろうことは承知しています。

 それでも、もはやそこにすがるしかない、という想いは、やはり道理として無視をされるものなのでしょうか。

 

 もうこれ以上、生きていていい人間だとは自分で思えない。

 不本意だけれども、この状況が続くなら、死を選ぶ。

 でも、感じてこられなかった「幸せ」にあふれた時間を、せめて最後の30日間ぐらいは感じたい。

 

 これまでの他者に対しての人生は、「奉仕」「献身」「崩壊」「自責」の単語でおおかた済みます。

 命というものがどれだけ重いか、見ず知らずの人にでも、すぐさま自分を犠牲にしよう、そんな心をもってやってきました。

 もし救えた時、必要とあらば、自分の人生にその人を据え置く覚悟も併せて。

 こんな行動がなぜできるのか?愛されること、を知ることができなかったからだと思っています。

 必要とされるためなら何でもしてしまう人間になっていった、ということです。

 ただ、この考え方が軸としてあまりに強く在るせいで、「普通の感覚」が物足りないものに映ってしまっているのも事実でしょう。

 「どうして、みんなそれで満足できるんだろう?」「そうか、愛があるからか」と、納得をしてきました。

 

 自分の考え方からすれば、救われてしかるべき人間です。たとえ「何も」できていなくたって、その人間が生きている限りは、肯定できるところを見つけ輝かせ、笑顔と共にある人生を歩ませるのは、そばにいることを決めた人の責任だと思っています。全ての人が、これほどの想い、言い換えるなら「愛」を受けて然るべきだ、と思っています。これが広がれば、非行も犯罪もほぼなくなります。きっと…

 

 ひたすらに目の前の人を信じ続けてきました。だから、諦めたくないんです。自分にそこまでの想いをもって、共にいたいと願い、お互いの想いが繋がる。都合のいい話がたった数日の間ででも生まれる世界があることを諦めたくはありません。

 

 助けてください。まだ生きていたいんです。

檸檬