ふと思い出しました。
私、出来ない子を演じる場面多かったなぁ・・・って。
出る杭は打たれる、とか言うし、自慢する子は嫌われるとかそういうのがすごく価値感として
入っていたんだと思いますが、自分をよく見せようとすることはよくない、と思っていた気がします。
学校に行っていた時は、とにかく目立たないようにしよう、というのがあって、
人より出ることがないように(出るものも特になかったんですが)気をつけていたと思います。
一つには、吃音があるから、目立ってしまうと吃音がバレて、イジメに遭うかもしれないって思っていたし、
えらそうにしたら、弱みにつけこまれる(吃音)って思っていたし、
だから、謙虚に、というよりも卑下しているぐらいの方が人からの攻撃は受けないだろうと思っていたような気がします。
それに、妙に周りの期待に応えてしまう自分もいて、
それは全然いい意味の期待ではなくて、私は出来ない子です的な周りのイメージを崩したくなかった、っていう感じです。
例えば、私は運動オンチで、体育はすごく苦手な授業でした。
跳び箱は跳べないし、走ったら遅いし、ドッジボールではすぐに当てられてしまう感じの子。
最初から自分は運動できない、って決めつけていて、頑張ることも無意味だと思っていたような気がします。
フットベースボールという球技があって、私がボールを蹴る番になると、
相手側のチームの、前の方で守っている子たちが、みんなすごく前に出てくるんです。
私がボールを遠くまで蹴れないのを知っているからです。
その時の、相手側のチームの子たちの顔。
私のボールなんて全く警戒もしていないし、ちょっと小馬鹿にしたように前に出てくる。
その子たちの期待を裏切らないように、私はいつも弱弱しくボールを蹴る。
今考えたら、全然、本気じゃなかった。
前の方に出てきたら、後との間が空くんだから、チャンスだったかもしれない。
期待を裏切って、思いっきり力を込めて蹴ったら、もしかしたら私のボールでも遠くへ飛んだかもしれない。
だけど、そんな出来る子をやってしまったらダメだと思っていたし、
みんなの期待を裏切るし、
私はそんな子じゃないし・・・・って自分で自分を抑えてた。
それに、思いっきり蹴ったのに、空振りだったり、全然飛ばなかった時のことを考えたら、
最初から手を抜いた方が、恥ずかしい思いをしなくても済むって思う気持ちもあったかもしれません。
なんだかすごく複雑なんだけど(;^_^A
とにかく、全力を出してなかったなぁ。
あの時、思いっきり蹴ってもよかったんだなぁ。
期待を裏切ってよかったし、みんなのビックリする顔を見て 『フフン:*:・( ̄∀ ̄)・:*:』
ってえらっそうな私を出してもよかったんだなぁ~~~~って思いました。
出来ない子をずっと演じてたんだなぁ・・・って。
実際、出来ないこともあるんだけど、本気を出してないって思うことで、
私は本気出したら出来るのよ、的な可能性を残しておきたかったのかもしれません。
ものすごく頑張って出来なかったら、すごくショックだから・・・。
傷つきたくないし、そんな出来ない自分を受け入れられるほど強くなかったのかな。
現実を現実と受け止められないから、可能性を残すために、出来ない子を自分で演じていたところもあったんだろうなぁと思います。
体育のことだけじゃなくて、いろんな事に本気を出してなかったと思います。
今の時点では、私はこれだけ出来るし、これだけ出来ないんだ、と現実を知ることがすごく怖かった気がします。
自分の価値がとても低かったから、本当に出来ないんだと現実を見てしまったら
さらにダメ人間になるから、自分を守るためにも避けていたのかなと思います。
という事は、私は現実に生きてなかったんでしょうね。
いつも可能性を残したまま、空想の世界で生きていたのかもしれません。
どおりで、タロットのカップ7がよく出るはずです。
私は現実をちゃんと受け止めないといけないんだなぁ~と思いました。
出来るにしろ出来ないにしろ、私はそうなんだな、と。
出来るから価値があるとか、出来ないから価値がないとか、そういう判断基準が自分の中にあったから
出来ない自分を見たくなかったんでしょうね(:_;)
出来なくても私の価値にはなんの変わりもない。
ただ、出来ない、というだけ。
ですよね♪
本気出していこうって思いました。
怖いけど・・・
私、出来なくてダメダメじゃないの~~~ってことを受け止めよう。
逆に、出来ることは、出来るじゃないの~~~♪って言ってあげたらいいし。
本気出しても大して変わらないかもしれないけど←はずかし~~
現実に生きている、って実感できたらそれが一番大事なことかなと思います。
とりあえず、イメージの中で、フットベースボールをやる私、思いっきりボール蹴って、
みんなを驚かせてやります
大活躍してやる(笑)