自分は人の事馬鹿にしたり貶したりしながら生きている卑しい人間なような気がしてくる。

 

 

実際、表面上そうではない。

でも決して隠しているわけでもない。

嘘は吐くのが苦手なので、自分が負の感情を抱かないように、物事の観方をコントロールしているに過ぎない。

 

誰かに対する憎しみが、その人に対しての愛情であるように。

 

何かに強く惹かれるとは、何かにすごく関心を持つとは。良くも悪くも同じ熱量を発するのだ。

つまりそれをどのように外に放出するかという点をコントロールすれば良いだけの話。

家族は近すぎる故にその愛憎がはっきりとあるだけ。

 

妹は私のブログを読みながらたまにまだ憎んでいるのかと言ってくる。

でも仕組みはこういう事で、憎んでいると言えば憎んでいるのかもしれない。

妹への執着心は大きいのでどちらともつかない。

妹と過ごした時間が長く、質が高いのでより思い出される記憶も多い。

それが怨念の形をしているか、愛情に満ちたものであるかという話だから、憎しみに見えたら「この姉、妹の事が大好きなあまりにいつまでもこだわっているのだ」とテロップをつけてしまえばいい。

物事はその程度と言ってしまえばおしまいだ。

 

母親に一連の行動を「馬鹿だ」となじられた。

この母親、私の事を一人の子供という風にはもはや見ていない。

親しい友人か何かと勘違いしているんだろうとよく思う。

それはそれでいい。それならばせめて突然親の顔をするのはやめてくれとよく思う。

私が切り替えられないというか、普段の扱いが雑で他人事なわりに都合がいい事だけは親の顔をするので、必要な時に放っておかれる。その感覚がどうも不快だったりする。

 

しかし、別に親しい存在として置いてもらっている分には、相手の気がそれで済むのなら全然良いとも思う。だから治してくれとは言わないし、言ってもひねくれた受け取り方をされて相手にされない気がするので何も言わない。

そういうことで、物事に二つの視点があり、行動を取るのは誰しもそうだと思う。

 

私はなじられたことを悲しいと感じた。

そんなことまで言われる筋合いはないというのと、労りの言葉もなく、すぐそうして揶揄いの言葉だけ飛ばす、そんな母親にしばしば幻滅している。

私は母親のそういう軽率に人を貶せるところがとても嫌いだ。

母親だけじゃなく、例にももれず妹もそう”だった”のでもうだいぶトラウマになっている。

今の妹は柔らかい”方”だ。

前記事にしたようにゼロにはならないのでそれでいい。

 

私は周りが何故か視認する「コイツは貶しても大丈夫」という人間ではない、むしろだいぶ脆いので本当にやめてほしい。自他ともに優しい世界で生きていきたいと切実に願う人間だ。

父親もこっち側だと思っているのでしばしば母親の無神経にイラっとしている。

でも母親みたいな人間がもっぱら多いのが世の中だと感じる。

だから別に間違った事をしているんでないし、傷つくのは私の中の私一人なので放っておいている。いちいち考える方がこうしてややこしいんだ。分かっている。

 

分かってはいるが、考えているのは、私が私の「悲しい」を上手く受け止められるよう、練習したいからだ。

そんなことを頭で考えていたら昔の妹から一言「不幸自慢だ」という野次を貰った。

辛辣な頃の妹と私の私に否定的な脳みそはお友達関係らしく、度々こうして出てきている。

厄介なのでこいつを退治しない限りは自己否定的な自動思考を続けるんだろうと思っている

私にこう言った妹も、そのころはそうした自己暗示を掛けて、感情に鍵をしていたのだろうと思うと少し悲しい。私にも自分にも掛けた呪いのようなものだと思う。

幸い妹は自己変容が得意技なのできっと抜け出せたのであろうが。