面談は、実習に向けての担当教員と行うものをしてきたのだが、何を言われたかを一体どこに記せば覚えていられるかが分からないので、ここに書いておくことにする。
特別大層なものではない。
生活習慣のことについての基本的な指導で、
・睡眠をしっかり摂る
・食事は買ってきたものではなく、自炊をし、栄養バランスにも気を付ける
という二点。
もう一点が、情報が飛び交う中で如何にして自身の受け取りたい情報を、聞き逃す事なく、忘れることも無く受け取るか、という事を模索しておきなさいというもの。
他は、同じグループメンバーと親しくなっておく事と返したファイルを使って互いに得意不得意を見つけて、学びなおしをしておくこと。
あと自己判断で薬を辞めずにもう一度ちゃんと服薬のために病院に通いなさい、との事だった。その理由も今と違う状況下になるのだからなるべく負荷をなくす、という名目であったため、一理あると思い、先ほど早々に予約を取った。
学生の精神的負荷を考えて、状況も聞いた上でアドバイスしてくれているので、教員として学生の事を守り支援していく責任と誠意が強いのだろうと感じる。本当に恵まれた環境だ。
服薬と通院を(カウンセラーの助言はあれど)自己判断でやめたことについて、
「不安や不確かな事があると行動が止まってしまう」
と、言い表してくれた。
その言葉にとても納得がいった。それは薬についての事だけではない。
他の行動も大概が私はそうだと気づいた。
課題についてもそうで、何をやるのか具体的で短時間で終わる課題は手を付けやすいのに対し、出された時点で何を要求されているか読み取りずらかったり、考える事や動作が複数発生すると、それらは考え込んでしまって色々な可能性に気づいてしまうためになかなか進めることが出来ない。
人が目の前でトラブルを起こした時も、自分が何かやらかした時もとりあえず体の動きが止まってしまう。
簡単にまとめてしまえば柔軟な対処が出来ないのだ。
脳が常に余分な情報で占拠されている以上、整理して物事を考えるのが難しい。
この言葉に尽きる。
部屋も散らかりがちだが脳内も常に散らかっている。
だから重要なものが一つ転がり込んでも、それ一つを手に掴む為には他の物を一度どかしながら、重要なものがどこに紛れ込んだか探さないといけなくなる。
本当にこの間あったのが、重要な事を話さなければならないLINEと大量の課題と、部屋や食器の片付けが滞ってしまい、すべてから手を付けたいけれどどこからも手が付けられずに時間だけが過ぎる、というのを経験した。他の人に相談して一番気がかりだったLINE返信をする時間を設けてもらってやっと手についた。”これを行う時間”というのを固定化したり、自ら作るのが難しいのだ。
止まってしまうし時間が作れない。この二つが洗い出せたのがすごく嬉しかったりする。
出来ない事が、漠然といつも何故か出来ないのではなく、連続性を持って毎回これが出来ていない、と具体的になれば次は対処を考えればいい。
分かりさえすれば多少なりとも対処がしやすくなる。
今までも、別に不安そのものを野放しにしていた訳ではなかったが、評価方法も改善もどういう観点で捉えるのが適切なのかが掴めずに、根性論に走ったり完璧主義になって精神をすり減らしたりと無謀な事しか出来なかった。
周囲のその場だけの対処法と、その出来事だけしか見えていなかったからだ。
そのため、行動パターンを見つけてくれたことと少しずつでもそれらを変えていけばよいと評価してくれる事も含め、嬉しいと感じた。
さて、良いのか悪いのかよくわからないが、どんどん関連していろんな話が出てきてしまっていつも収集がつかないが為に、もう一つ書きたかった事をそろそろ忘れそうなので雑に切り替える。
ADHDの診断が下り、カウンセラーと話すようになり、ここまで。
まだカウンセリング自体は半年。
価値観の変容が大きくて、どう対処するのが正解か分からない毎日である。
この年になるまで、普通の人間とおおよそ同じ価値観で自己評価し、生きてきたのだ。
この話もしかしたら前にも書いたかもしれないが書いてたら申し訳ない。
異世界に飛ばされた気分というか、赤ん坊に生まれなおした気分というか。本当に。
見える世界から何か違うように感じる。どちらがいいという事はない。
価値観については善と悪という分かりやすい指標からリセットされてしまったので、最近何を良しとして何をいけないと戒めるかで度々迷う。
元々人に価値観を合わせて生きてきたところがあるので、オリジナルを作っていいよと言われても要領を得ない。何が心地よくて何が不快なのか………それすら漠然としている私はもしかしたら赤ん坊以下かもしれない。
好きな事だけ取る毎日はよくないかもしれない。
でも嫌な事を続ける毎日は、結果的に何も得ないかもしれない。
美味しいからといってお菓子を食べるのは体に毒かもしれない。
好きなものを我慢して過ごすと、ストレスで体に毒かもしれない。
集中して聞けない授業は、参加しても意味をなさないかもしれない。
課題も出席もすべて必ずこなさないと、「誠実」と言えないかもしれない。
これほどの痛みならば薬を使うべきかもしれない。
薬が慣れてしまう事と感覚が一時的にでも無くなる事は、怖い事かもしれない。
この音は、聴覚過敏の人は嫌いだから、私も苦手かもしれない。
今までは平気だったのだし、耳を傾けているのなら問題ないのかもしれない。
この柔軟剤はよく匂ってくるから、「いい匂い」かもしれない。
これが「鼻につく」とか「きつい匂い」というやつかもしれない。
自殺をしそうな人を止められないのは、相手の気持ちになりすぎているからかもしれない。
全ては私のエゴで、相手からの信用を失うのが恐ろしいだけの臆病者なのかもしれない。
それら全ての曖昧に、結局私がどうなりたいかだと言うんだろう。
追記。そうして迷ってしまう理由の一つに、助けを求めたは良いが、正解は自分の感覚に従えと言われた事があると思う。
助けてもらうという事が、”誰かの教えに沿う”という事ではなく、”自身を見つける”という方面だった。それが何よりも新しい価値観。私が今まで出来ずに、今も分からずにいる事。