私は人の気持ちが分からないことや、人と違う感情を持っている事をしばしば気にしているのかもしれない。

誰かが良いといったものの良さが理解できない、興味が持てないと不透明で無理解ということが不安になるのだと思う。無理解は人間関係に溝が出来る。それ以上立ち入る事が出来ないために。一つ自分に理解できないことがあるだけで恐れるのは、昔全て無関心に生きていたころに何もかも偏見であった事が関与する。

見えないものは想像の目で理解を補う事しか出来ないために、誤解してとらえやすい。

勿論物事一つ一つ、見えている物にも見えないものが隠れていると思って疑ったり想像を膨らませる力は無下には出来ないのだが、見て分かる情報をとりあえず信じてみる心も忘れてはならないと思う。

そのものに無関心、無理解というのは、関心を持つことによって手に入るはずであった情報や知識を自分に取り入れることを妨げる。

知識が無いというのは、その部分に自分の死角が出来るという事でもある。

だから怖いのだ。

しかし私の彼女は私が興味を持てないことを許した。

簡単な一言で、「それでいいと思うよ」と。

彼女にとっては興味のある事に、興味がないと言ったにもかかわらず、それを許してくれた。

思えば彼女はそうして私の些細な罪悪感や不安感を優しく受け止めて軽く払いのけてくれる人だと思った。

私はそうして、些細な事も気になってしまうために、気になってしまう私を気にしないで、かといって馬鹿にするわけでもなく優しく返してくれるのが心地いいのだ。

そうして気にならないうちにいつも救われている事に気づいた。