東京 大正寺 川路聖謨の墓 | 僕と歴史と墓 

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こんにちは!

少し時間があるので、少しだけ書きます。

今回は、上野にある大正寺という寺を紹介します。

 

↑この辺りには、いくつか寺が密集しています。

 近くには、小学校もあり、高層マンションも建っていました。

 ここが、大正寺の門です。

 門が西洋風で本堂も新しい寺でした。

 

↑門の前には、川路聖謨の説明が書かれた看板もありました。

 

↑大正寺の本堂です。

 大正寺に入ったときから、少し雨が降り始めていて、急いで墓参しました。

 

↑墓地の少し分かりづらいところに川路家の墓はあります。

 まだ新しい花が供えられていましたカメラ

 

↑墓石の横には、埋葬されている人達の名前が刻まれていました。

 そのなかには、川路聖謨の名前もありました虫めがね

 

↑昭和39年7月に墓石を子孫の方が造り直したみたいですカメラ

 

↑川路聖謨は、豊後国日田(大分県日田市)で生まれ、幕臣の川路光房の養子になります。

 その後、支配勘定出役に就任して、評定所留役、寺社奉行調役、勘定吟味役などを歴任。

 ついで、佐渡、奈良、大阪町奉行なども経て、勘定奉行兼海防掛に任じられました。

 米使ペリーの浦賀、露使プチャーチンの長崎来航により、国防の急務を痛感して、

 品川沖に台場を築きます。

 露使とは、応接全権となって交渉に当たって、樺太の北緯50度以南、択捉島の我が国領有わ主張し、

 井伊直弼の大老就任により左遷されるが、外国奉行に起用されました。

 後に病のため退官して、江戸開城直前に自害しました。

 「長崎日記」、「下田日記」、「京都日記」などの聖謨の日記は貴重な史料だそうです。

 

 

 

 

 

今回は、これで、終わりです。

また時間があったときに書こうと思います!

では、さようなら!