いまさら何を 無責任体制の放置のもたらした結果 名古屋市教育行政
中2“自殺”河村市長が事実究明求める
名古屋市の中学2年の男子生徒(13)がいじめを苦に自殺したとされる問題で、12日、保護者説明会に参加した名古屋市・河村たかし市長は、改めて当局に対し事実を全て明かすよう求めた。
名古屋市南区の明豊中学校に通っていた2年の男子生徒がいじめを苦に自殺したとされる問題では、生徒の自宅に残されていたノートに、「死ねと言われた」などと書かれていたことが明らかになっている一方で、教育委員会が、担任の教諭にはいじめの認識がなかったと話すなど説明に食い違いが出ている。
学校は12日の会見で、生徒へのアンケートでいじめとみられる行為の記載があったと発表したが、慎重に事実関係を調べるとしている。
12日午後8時半からこの日2度目の保護者説明会が開かれ、河村市長も参加した。
河村市長「(担任を)一緒にかばっているのだろうと、当局側の隠ぺい体質と思われていることは事実です。その点はきちっとやる」
教育委員会は16日に改めて会見を開くとしている。
「引用元:yahoo ニュース」
数年前に、無責任体勢を知らせるべく、裁判を起こしていたが、やはり市長の耳に入っていなかったということなのだろう。
それとも、利権にまみれて、関心がなかったということだろうか?
三権分立も現代憲法が生まれて半世紀、癒着の歴史の中、機能不全に陥ってもいる。
教育行政の問題点は、無責任体勢ということがまず第一に挙げられる。
管理職のがその管理の中にあるべき人員を管理できないという無責任体制がある。教師であろうと、職員であろうと人事権がないというのは致命的だろう。
学校単位でいえば、学区で生徒の囲い、教師の質も何も関係なくいやおうなしに強制収用される。これを自由化すれば、教師の質が悪ければ、淘汰されるはずだし質の悪い教師は排斥される。これを日教組と文科省が阻害している。
彼らにとって、雇用主は住民なのだが、直接ではなく、代表であるものが決済しているため、この時点ですべての当事者が無責任になる。ほぼ無制限に待遇がよくなる。
排斥などありえない。
加えて、行財政の悪化については、臨時職員などで補填されるため役所の仕事をしていながらワーキングプアとなるし、職員間でのいじめの対象になる。
大人の社会ですら、この現状であれば、学区の中で強制収用される児童、生徒間ではなおさらいじめになるのは目に見えている。
先にも書いたと思うが、「35歳の高校生」というドラマがあった。最終回をチラッと見たが、文科相と日教組の利権保護を生徒の側の主張として正当化しているという結末になんという思想管理のはいったドラマを作ったものかと思ったものだ。どこの社会主義国家なのだろうと。
私の時代にもいじめは見てきたし、子供に大半の人間に反対して擁護できるだけの自立性を求めることは今思い返しても難しいと思う。
本来的に考えれば、いじめられている人の側を擁護することは社会正義にそぐうことなのだが、少数派はいつもいじめられる側になってしまうという圧力に対抗しなければならない。
民主主義は多数派が大手を振って歩く社会ということなのだし、なんともならない。これはこれまでの人生を振り返って思うことだ。
この現実を一子供に向けられるというのは酷ではないか?
その結果、若くして自ら死を選ばざるを得ないということになってしまう。日教組や文科省に関連した役人の利権のために将来有望な命を失うということに矛盾を感じないのだろうか?
無責任に言い訳をする教師もみっともない限りだ。
教育利権を自由化すれば、いじめなどなくすことはできる。それこそドラマの結末の逆を行えばいいだけのことだろう。
憲法改正などといっているくらいなのだから、すべてをリセットしてやり直す「大政奉還」をある政党に提案したのだが、アクションはない。
財政破綻するまで突っ走るしかないのだろう。すべての国民の犠牲をして、役人の利権だけが残ることだけはなってほしくない将来なのだが、明治憲法から、現代憲法の移行に際しても残り続けたゴキブリのようなやつらだから、残るのかもしれない。
海外に出て、華僑ではなく日僑のような海外組織、できるなら、別国家を作れたらいいと思うのだが、まあ、この国に期待することはもはや何もない。
極端といわれるかもしれないが、この本に書かれていることを実現すれば、いじめもなくなるだろうし、義務教育を卒業してまともに字が読めないということはなくな炉うだろう。
現実、私は高校のときに小学生で読めるべき字が読めない年下の同級生を診てきた経験がある。
名古屋市の中学2年の男子生徒(13)がいじめを苦に自殺したとされる問題で、12日、保護者説明会に参加した名古屋市・河村たかし市長は、改めて当局に対し事実を全て明かすよう求めた。
名古屋市南区の明豊中学校に通っていた2年の男子生徒がいじめを苦に自殺したとされる問題では、生徒の自宅に残されていたノートに、「死ねと言われた」などと書かれていたことが明らかになっている一方で、教育委員会が、担任の教諭にはいじめの認識がなかったと話すなど説明に食い違いが出ている。
学校は12日の会見で、生徒へのアンケートでいじめとみられる行為の記載があったと発表したが、慎重に事実関係を調べるとしている。
12日午後8時半からこの日2度目の保護者説明会が開かれ、河村市長も参加した。
河村市長「(担任を)一緒にかばっているのだろうと、当局側の隠ぺい体質と思われていることは事実です。その点はきちっとやる」
教育委員会は16日に改めて会見を開くとしている。
「引用元:yahoo ニュース」
数年前に、無責任体勢を知らせるべく、裁判を起こしていたが、やはり市長の耳に入っていなかったということなのだろう。
それとも、利権にまみれて、関心がなかったということだろうか?
三権分立も現代憲法が生まれて半世紀、癒着の歴史の中、機能不全に陥ってもいる。
教育行政の問題点は、無責任体勢ということがまず第一に挙げられる。
管理職のがその管理の中にあるべき人員を管理できないという無責任体制がある。教師であろうと、職員であろうと人事権がないというのは致命的だろう。
学校単位でいえば、学区で生徒の囲い、教師の質も何も関係なくいやおうなしに強制収用される。これを自由化すれば、教師の質が悪ければ、淘汰されるはずだし質の悪い教師は排斥される。これを日教組と文科省が阻害している。
彼らにとって、雇用主は住民なのだが、直接ではなく、代表であるものが決済しているため、この時点ですべての当事者が無責任になる。ほぼ無制限に待遇がよくなる。
排斥などありえない。
加えて、行財政の悪化については、臨時職員などで補填されるため役所の仕事をしていながらワーキングプアとなるし、職員間でのいじめの対象になる。
大人の社会ですら、この現状であれば、学区の中で強制収用される児童、生徒間ではなおさらいじめになるのは目に見えている。
先にも書いたと思うが、「35歳の高校生」というドラマがあった。最終回をチラッと見たが、文科相と日教組の利権保護を生徒の側の主張として正当化しているという結末になんという思想管理のはいったドラマを作ったものかと思ったものだ。どこの社会主義国家なのだろうと。
私の時代にもいじめは見てきたし、子供に大半の人間に反対して擁護できるだけの自立性を求めることは今思い返しても難しいと思う。
本来的に考えれば、いじめられている人の側を擁護することは社会正義にそぐうことなのだが、少数派はいつもいじめられる側になってしまうという圧力に対抗しなければならない。
民主主義は多数派が大手を振って歩く社会ということなのだし、なんともならない。これはこれまでの人生を振り返って思うことだ。
この現実を一子供に向けられるというのは酷ではないか?
その結果、若くして自ら死を選ばざるを得ないということになってしまう。日教組や文科省に関連した役人の利権のために将来有望な命を失うということに矛盾を感じないのだろうか?
無責任に言い訳をする教師もみっともない限りだ。
教育利権を自由化すれば、いじめなどなくすことはできる。それこそドラマの結末の逆を行えばいいだけのことだろう。
憲法改正などといっているくらいなのだから、すべてをリセットしてやり直す「大政奉還」をある政党に提案したのだが、アクションはない。
財政破綻するまで突っ走るしかないのだろう。すべての国民の犠牲をして、役人の利権だけが残ることだけはなってほしくない将来なのだが、明治憲法から、現代憲法の移行に際しても残り続けたゴキブリのようなやつらだから、残るのかもしれない。
海外に出て、華僑ではなく日僑のような海外組織、できるなら、別国家を作れたらいいと思うのだが、まあ、この国に期待することはもはや何もない。
極端といわれるかもしれないが、この本に書かれていることを実現すれば、いじめもなくなるだろうし、義務教育を卒業してまともに字が読めないということはなくな炉うだろう。
現実、私は高校のときに小学生で読めるべき字が読めない年下の同級生を診てきた経験がある。