たまたま、容堂さんが亡くなった日って

いつだっけ?とおもい

(忘れてしまって、私も昔に記事あげてたんだけど)

 

私も供養してあげたほうがいいんだよねとか

思ってほかの記事みてたら

くわしいのがあったので

いくつか見てた。

ついでに貼り付けとく。まぁ歴史に関心ある人でないと

あんまり興味ないかもしれないけど

 

武市半平太亡くなったの容堂の命令だったんだね

うわーかわいそーに

でも、うーん・・・・仕方なかったのかなー

 

 

酒と権力の狭間で:山内容堂の死因を探る | くろこげブログ (kurokoge.blog)

出身
土佐藩
生年月日
1827年11月27日
没年月日
1872年7月26日
年齢
満44歳没

土佐藩15代藩主。幕末の四賢候の一人。酒と詩をこよなく愛し、「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」とみずから名乗っていた。

 

 

年月日 年齢(人生の残り時間) 内容
1827年11月27日 0歳 (あと44年) 山内容堂、生まれる
1860年10月19日 32歳 (あと11年) 徳川慶喜、松平春嶽、山内容堂 謹慎解除
1864年04月14日 36歳 (あと8年) 参与会議瓦解
1867年06月06日 39歳 (あと5年) 四侯会議
1867年07月11日 39歳 (あと5年) 坂本龍馬、土佐藩参政・後藤象二郎に船中八策を提示
1867年10月29日 39歳 (あと4年) 山内容堂、大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出
1867年11月09日 39歳 (あと4年) 大政奉還
1870年05月27日 42歳 (あと2年) 小御所会議
1872年07月26日 44歳 山内容堂、死去

 

 

 

 
 
 
容堂さんは医者とか志士とかに切腹命じたりとかが
あったんだね・・・・私もそこまでは知らなかった。
だから高知では容堂さんがあまり人気ないんだね。
私の先祖はよくしてもらって恩人様とおもってるので
悪くはみれないんだな。可愛がられた方だから
 
 
上にあります武市半平太の壮絶な人生より一部引用

武市や「土佐勤王党」の党士は次々に投獄されました。
武市は上士なので拷問はされませんでしたが、

武市以外の党士は強烈な拷問に遭い、岡田以蔵の自白によって、(人斬りで有名な人ね、糞㊦②とか斬ってほしいもんやわ)

武市が吉田東洋の暗殺に関わっていたことが判明しました。
これにより、山内容堂は武市に対して

「君主に対する不敬行為」という罪状「切腹」を命じます。

ちなみに、武市以外の党士のほとんどが斬首で処刑されました。(あらーこれは・・・土佐藩はめちゃ厳しかったんだよ)
一方、武市は「切腹」を命じられました。
その理由は、武市の身分が高かったため、

山内容堂は武士の名誉ある最期の死に方である

「切腹」を命じたのです。

 

壮絶な「三文字切腹」

山内容堂から切腹を命じられた武市は、

1865年「三文字切腹」で、享年37歳(満35歳)で生涯を閉じました。

 

「三文字切腹」とは、文字通り、腹を三の字のように

横に三回切る切腹の方法です。

一般的な切腹は刀で腹を切り裂きますが、

その回数は一回で、頃合いを見計らって

介錯人が首を切り落とします。
 

ただ、一回で絶命することは少ないようで、

刀を腹に突き立てるのは作法であり、

実際は介錯人により命を絶つというのがほとんどでした。

 

それに対して、武市の「三文字切腹」は刀を三回腹に

突き立てるもので、常人には耐えられないほどの想像を絶する苦痛を伴います。
しかし、武市は切腹だけで命を絶つ道を選んだのです。

 

「三文字切腹」は壮絶で、検視役の袴が

血に染まったほどでした。
最終的には介錯人により絶命したようですが、

切腹の仕方も武市の実直な性格が表れているような気がします。
そして、この衝撃的な最期が武市を後世に名を残す

要因の1つになったのは間違いありません。

 

↓こちらが武市の辞世の句です。

ふたたびと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり

「再び返ることのない歳月をはかないと思ったこともあったが、

(今から死ぬのだから)もう過去のことは惜しまない身の上になってしまった」という意味です。
 

「歳」を「歳月」と捉えるか「年齢」と捉えるかは、

意見のわかれるところですが、両方の意味が

込められているのかもしれません。

武市の妻・島村富子のその後

武市半平太は20歳の時に島村富子(しまむら とみこ)と結婚しました。
富子は献身的に武市を支え続けました。
 

武市が投獄されると、冬は布団をかけずに板の間で眠り、夏は蚊帳をつけずに眠りました。
夫である武市と同じように、厳しい環境を自らに課したのです。

 

一方、武市も富子に手紙を送り続けました。
手紙には、牢屋の間取りや牢番の姿まで描かれていますし、

多くの手紙が冨の元へ届いていることからも、

武市に協力的な牢番も少なくなかったようです。

 

その後、武市が亡くなると、富子は士族籍を剥奪された上に

家禄を没収され、貧しい生活を余儀なくされます。

 

しかし、明治10年に特旨が出て、武市の名誉が回復します。
当時、宮内大臣となっていた

元土佐勤王党の田中光顕(たなか みつあき)らによって、

富子に援助の手が差し伸べられたのです。

 

富子は明治42年に東京に転居しますが、

その3年後には養子である武市半太(たけち はんた)

共に土佐へ帰郷し、余生を過ごし、

大正6年に88歳で亡くなりました。
 

半太は医師免許を得て開業し、富子の晩年を支えたそうです。

(えらいねー優しいね。この養子の人)

この夫婦ね、子供ができなかったんだもんね。だから

養子を迎えた。

 

まだ武市半平太が若い頃、子供が何年経ってもできないので

同じ藩士の吉村寅太郎が、策略をねって

 

半平太の奥さんをなんとか説得させ里帰りさせて

奧さんの留守中に身の回りの世話という事で

女を半平太の屋敷に次々と送り込んで仕掛けたけど

誘うように。武士の誉れ、

その女に何人女をいれかえても手を出さない

(今の男子に煎じて飲ませたいね。

今の半数以上の男なら、すぐにアレふくらまかせて

今ならやれる!!!お、好みだー遊んではけぐちにとか、

思うアーほのほうが多いと思う。女房いないすきにーとか

議員でも奧さんの出産中に家の中にいれてやってたのが

いたじゃんよ。(笑)日本は敗戦後の愚民化洗脳で

男子はとくに堕落させてきたから亜米利加色に染まりまくってる

男性多いから(笑)

 

半平太みたいなのが本来の武士

うちの先祖も度真面目だったよ。ただこんな

消したい人いても

人斬りにわざわざ依頼したり

そんなことはうちの先祖は絶対しないけどね

それがよくなかったね


半平太曰く「子のないのは天命である。

今後はこのような配慮は慎んでもらいたい」と寅太郎を叱咤した

 

 

ちなみに、中央大学法学部教授であった武市楯夫氏は生前、

自身が半太の子であることを公言していたといわれています。

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私の過去記事で山内容堂殿

山内 容堂 | 神通力女将の日々早々 (ameblo.jp)

土佐の山内藩主の甲冑 | 神通力女将の日々早々 (ameblo.jp)

 

私の過去記事で武市半平太殿

武市半平太! | 神通力女将の日々早々 (ameblo.jp)