イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

秋月 種樹(あきづき たねたつ、天保4年10月17日(1833年) ー 明治37年(1904年)
幕末・明治期の日本の政治家。

この方の二千年前の曾は、漢の皇帝であった。
少し話しは脱線するが、有名な米沢藩主10代目の
上杉鷹山(うえすぎ・ようざん)は、養子にいって
上杉になったが、元はここの秋月氏の出自である。

高鍋藩主・第九代藩主の秋月種任の三男にあたる。

秋月種樹の秀才ぶりは、音に聞こえ、部屋住みの身で昌平坂学問奉行所に就任
続いて翌年には、将軍の徳川家茂の侍読兼若年寄に抜擢されたり
1867年には再び 今度は明治天皇の若年寄にと抜擢される。

貴族院議員、参与、明治天皇侍読。

諱は種樹、号は古香。

文久2年(1862年)のとき、部屋住みの身で幕府学問所奉行に登用。

翌年には若年寄格を兼任。秋月家は2万7000石の外様大名であり
異例の抜擢であった。同年、兄種殷の世子となる。元治元年(1864年)職を辞した。

慶応3年(1867年)、若年寄に任ぜられるも出仕せず半年で辞任。
維新後に明治政府に出仕。公議所議長・左院少議官・元老院議官・貴族院議員などを
歴任。

明治2年(1869年)大学大監の命を受け翌年には大学校・小学校規則を発布
今日の学校制度の礎(いしずえ)を築いた。

明治15年(1882年)高鍋に戻り10年間千歳亭(せんざいてい)に
悠々自適の生活を送った。のち病を得て高木兼寛の勧めにより神東川県片瀬に
転地療養、ここが終えんの地となった。行年72歳であった。

明治17年(1884年)7月、種樹の子である種繁が男爵を授爵する。

明治37年(1904年)10月、病のため没する。従二位勲二等に叙せられる

書は、種樹の直筆。号を樂山・古香・千歳叟などと称し安井息軒や
塩谷宕陰に漢学を学んだ儒者大名で幕府学問・所奉行・将軍家茂侍読・若年寄など
歴任し明治維新後は元老院議官や貴族院議員など歴任し
詩文に長じて能力も発揮、書家としても有名で書道や絵画を愛した才人である。


私、書道家として有名なのは聞いたことあるんです。
私の曾祖母の旦那になる人が、同じ藩にいたので種樹が藩主になってから
周りのものが、種樹が若かりし頃、小柄で風貌があがらないので
若くで藩主に就任したばっかりの頃 皆、注目するわけじゃないですか?
少しなめてた家臣も一部にはいたようなんです。でも、殿様に何か書かせたらその文字が
びっくりする程に達筆でやはり違う!と一目置かれたそうです。
書だけではなく能力も高い人だったと認められています。この歴任見ただけでも
分かりますよね。

種樹は、大名とは色々な付き合いはあったが土佐藩の山内容堂とは
意気投合の仲であったといわれる。ついでに私の先祖も容堂さんとも種樹さんとも
親しかったらしい。ちょうど、この二人が現存してた時に・・・私の先祖が土佐から日向におり
南へ下る前に土佐いたころ、山内家にかわいがられたようで 縁戚だったからかな?


今度は私の曾祖母の旦那といえば、元々秋月の藩に属してたから
私の先祖夫婦が、この地で、結婚するときには祝福があったようだ。