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山内 容堂(やまうち ようどう、文政10年10月29日(1827年11月27日) -
明治5年6月21日(1872年7月26日)は、日本の武士・外様大名
土佐藩15代藩主(在任期間:嘉永元年12月27日(1849年1月21日-
安政6年(1859年)2月)

官位は、従四位下・土佐守・侍従、のちに従二位・権中納言まで昇進している。

諱は豊信(とよしげ)。容堂は隠居してからの号。酒と詩を愛し
自らを鯨海酔侯(げいかいすいこう)と称した。
幕末の時流に上手く乗ろうとした態度は、当時の志士達から
「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。
正室は烏丸光政の娘(三条実万の養女)。


豊信(容堂)は12代藩主・山内豊資(とよすけ)の弟・山内豊著(とよあきら)と
側室の平石氏との間に生まれた。幼名は輝衛。
豊信の生家、山内南家は石高1,500石の分家で連枝五家の中での序列は
一番下であった。容堂は本来、藩主の地位とは程遠いところにいました。

藩主の子は江戸屋敷で生まれ育つが、豊信は分家の出であったため
高知城下で生まれ育ちました。 

 

私の先祖も土佐藩士いて容堂の家臣でした。

容堂さんは主君なのに友達のように親しかったのは

縁籍関係あったから

でもうちの先祖が当時金もって財力あったので

財力減らすらめにうちの先祖の私財で

容堂さんに命じられた御殿?作らされたことがあったとか

聞いた。そんでうちの曾祖母が幼い頃すごい

容堂がかわいがってくれて

父親である私の先祖の高祖父(家臣)に

容堂さんがおい〇〇をはよう連れてこいと

家族で遊びにこいと、手下のものに

早馬使ってきてせかすので、いそがないでのんびりしてると

また早馬きたのでえらいせかすなーじゃみなで

登城しようかと容堂の所へ到着。そして談笑しながら

ご馳走になってると大地震、城の下まで波がきて

城のところから城下を殿様たちと一緒にみて固まったそうで

曾祖母は子供なので抱っこされながらうわーーー波がきたー

波がきたぞよーと喜んでたって、それ津波だし

 

話を戻す
しかし山内家には、危機が訪れ13代・藩主の山内豊熈(とよてる)
その弟である14代藩主・山内豊惇(とよあつ)が相次いで急死しました。

豊惇は藩主12日という短さでの急死で山内家は断絶の危機に瀕し
豊惇には実弟(後の16代藩主・山内豊範(とよのり))が居ましたが
僅か3歳であったため、分家で当時22歳の豊信(のちの山内容堂)が
候補となります。容堂22歳での藩主就任です。

豊熈の妻・智鏡院(候姫)の実家に当たる薩摩藩などの後ろ盾により
老中首座であった阿部正弘に働きかけ豊惇は病気のため隠居したという形をとり
嘉永元年12月27日、豊信(容堂)が藩主に就任しました。
またこの時に智鏡院の養子となり、土佐藩を継ぎます。

智鏡院は「賢夫人」と称されており、豊信(容堂)はその智鏡院の養子となり
育てらます。豊信は、智鏡院に影響されて育っていったため
数々の名歌を残した豊信の才能は、智鏡院の影響が多いといわれました。

容堂が22歳で思いもよらない土佐藩主就任を遂げたとき
容堂は今までの自分の生活を顧みて後悔をしています。
 

分家の出であり高い地位になれないと思い込んでいた容堂は
酒を飲んではぶらぶらと毎日を過ごしていました。
 

しかし突然の藩主就任で藩政を司るようになったとき
容堂は自らの知識や決断力の欠如を

思い知らされることになります。
 

それまでの怠惰な生活を反省し読書などに励むようになったのです。
このときの後悔こそ

のちに「四賢候」の一人と数えられるまでになりました。
土佐藩主となった容堂は、尊王攘夷と佐幕の間で奮闘します。

そしてその容堂の読書の部屋においてあった書斎に

飾ってたものが、うちの家にあるんだよなー

容堂が亡くなったとき、形見分けのときにうちの先祖

親戚だったので呼ばれてうけとったんだよ

 



坂本龍馬の仲介によって成立した薩長同盟は、確実に倒幕へ
動き出していました。薩長の勢力拡大を懸念する容堂は
龍馬のたてた「船中八策」を妙案と受け入れ15代将軍慶喜に建白。

徳川の勢力を保ったまま新国家体制を目指そうと試みます。

しかしながら容堂の思惑はすでに叶わぬものとなりつつありました。
王政復古の大号令の後開かれた小御所会議において、山内容堂はその場に
慶喜がいないことを岩倉具視をはじめとする公卿の陰謀だと非難。

さらに「幼沖(幼い)の帝」を擁して権威を掌握しようとしていると
発言したところ岩倉側から「天子に向かって幼沖とは何事だ」と
咎められてしまいます。さらに西郷隆盛らが命の危険を示唆すると
容堂もさすがに沈黙。会議は討幕派のペースで進められます。

結局、政治への失望が晩年の容堂を襲い
再び酒と詩歌、女におぼれる毎日を過ごすことになります。

隠居生活は当時、別荘地として知られた橋場(東京都台東区)の別邸(綾瀬草堂)で
妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる晩年を送ります。


また連日で両国・柳橋などの酒楼にて豪遊、ついに家産が傾きかけたものの
容堂は「昔から大名が倒産した例しがない。

俺が先鞭をつけてやろう」と豪語し
家令の諌めを聞かなかったという。

また武市瑞山を殺したために土佐藩内に薩長に対抗できる人物を欠いて
新政府の実権を奪われたと考えてこれを悔やんだともいわれます。

(あー武市半平太ね。この人殺す必要なかったと私も思うよ)

山内容堂は、大名とも縁が深いが

九州のたかなべ藩の11代目・秋月種樹とは
交わりは深く意気投合する仲であった。

だからかーとわかることがあった。

でもまぁそれを色々かくとあれなので

おおざっぱにいうと容堂と

秋月と仲良かったから、うちの先祖があることを

頼まれてある任務のために世直しのために下って

今、私が済む所にきたんだよ。

 

 

 


秋月種樹が欧米に居る時に

土佐藩主の容堂は既に病床にあり

好みの酒盃を持つ手も適わぬ状態にあり
(自分の死が近くなることを察し)

秋月種樹との別離をおしみ

悲しい悲哀の手紙を書いている。
 

秋月種樹が滞欧中の六月二十日に

山内容堂は、明治5年積年の飲酒が元で

46歳の時、脳溢血で倒れて亡くなられました。
 

墓所は土佐藩下屋敷があった

大井公園(品川区東大井4丁目)にある。
種樹はのちに容堂の墓参りをしている。

 

 

私も行きたいんだけどなんで高知に墓ないのー

品川まで遠くていけんよー涙

私がいくと容堂さん喜ぶんだけどなー