毎日の生活の糧をお与え下さい。アーメン。
お疲れ様です。
暑い毎日が続きますが皆さんお元気ですか?
日焼け止め等のケアをしていない、すっぴんももりん♪は、朝夕のバイク
通勤だけで、思いっきし日焼けしてしまって、これはどうしたものか。。。悩むところですが、今のところ放置です。(笑)
実は私は、熱心な「クリスチャン」・・・。
ではありません。洗礼を受けた訳でもないし、毎日お祈りをしてる訳でもないです。
でも「神様の存在を信じますか?」と聞かれたら、「はい」と答えます。
人間も動物も植物もこの世に「生」を受けて生きる全ての物の存在を肯定し、
「何故、私はここにいるのか?」
「何故、私は今ここに生きているのか?」
その答えは「神様」の存在でしか自分の中で解決できないからです。
多分、本当の答えは、自分が「死」を迎えた時にわかるんじゃないかな?と勝手に思っています。
が・・・だからといって決して「自分の与えられた大事な「生」の期限を自ら縮めたり、いい加減な気持ちで毎日を過ごす」そんな気は全くありません。
私の母も又、熱心な「クリスチャン」ではありません。
なのに、何故か彼女の子ども(私を含め)4人とも、カトリックの幼稚園を卒園しています。(たまたまその頃住んでいた団地の徒歩圏内にその幼稚園があったからだと思いますが。)
でも、その後小学校4年生~中学2年生頃まで、電車に乗って毎週日曜日はプロテスタントの教会に通っていました。
ある意味、親のひかれた線路に沿ってまっすぐまっすぐ歩んできた私にとって、毎週日曜日に教会に行くことは、親からの「すりこみ」教育で、「行ってあたりまえ」のようだったので、何で通ってたのか、何で母が通わせたのか実はよくわかりません。
---------- そうだ、今度聞いてみよう。 ----------
でも多分答えは、(失礼な話ですが)単なる趣味の域かまたは、そういう世界観で相手を思いやり、自分に謙虚な気持ちで毎日を過ごし、恥じることなく真っ直ぐな姿勢で生きていってほしいという親の願いを代弁できる手っ取り早い方法として、子ども達を教会に通わせることにより、学ばせたかったのだと思います。
現にそういう意味では、知らぬ間に色々な事をしっかり学んだようですし。
キリスト教も、カトリック、プロテスタントと宗派が違いますが。。。
お祈りの時に必ず言うのが、
「私たちの毎日の生活の糧をお与え下さい。」
という言葉で祈ります。
この・・・「生活の糧」の「糧」って一体何でしょうか?
「糧」とは、毎日の「パン」、「食べ物、飲物」を差しています。
がこの「糧」を深く掘り下げてみると、ただ単に、「食べ物」「飲物」を指すのでなく、生きるためのすべてのものを意味するのだと思います。
かなり、受動的な考えですが、私たちの生活を満たす、なくてはならぬ物は、全て神様から与えられるものという意です。
では。。。例えば人にとって、わずかでも今日食べる「食べ物」と、粗末でも「着る物」と、雨露しのげる「住む所」=「衣食住」がそろったとします。
あと、人にとってとても大事な「必要な物(事)」って何だと思いますか?
私がきっとそうだと思う事があります。
「今日1日、自分のやるべき事。」です。
人は人としてこの世に「生」を受けて毎日を過ごし生きていくために必要なのは、「自分のやるべき事」なのでは?
と思います。
1日の生活の中で、
「私には何もすることがない」
「1つもやることが見つからない」
なんて事があったなら、自分自身が「無」自分の存在自身が「無」になってしまうのではないでしょうか?
「やりたいことが何一つ見つからない」ほど、人にとって退屈で、これほど面白くないことはないでしょう。
人として生きていて、忙しいながらも「自分にとってやることがある」「毎日やりたい事がある」って事はとても有り難く、大事な大事なことだと思います。
神様の存在を信じるか信じないかは別として・・・。
「毎日の生活の糧があることに感謝したい。」と切に思う私です。
<おまけ> 
。.:*・*:゜・*:.。. .。.:*・大の仲良しまあくんとの記念ショット・*:.。..。.:*・*:゜・*:.。

二人とも夜中12時過ぎてからのログインが多々なのでかなりの「夜更かしさん」同盟である。このツーショットを見つけたら、いじくってokですよ。

ミョ~なハイテンションと、タイミングと発する言葉と行動と笑いのツボと趣味趣向と・・・あらゆる点で場面で、まあくんと私は何故かマッチしてしまうんですが・・・。これって何だろう?
結果、いつもつるんでるっつーか。一緒にいて楽し~い!

パジャマでおねむモードで・・・家の中で花火・・・「あちち」「燃えるじょ!」
きゃはは。
載せられないのが残念ですが、人の家に侵入しては花火しまくって面白かったっす。(笑)

暑い毎日が続きますが皆さんお元気ですか?

日焼け止め等のケアをしていない、すっぴんももりん♪は、朝夕のバイク

実は私は、熱心な「クリスチャン」・・・。
ではありません。洗礼を受けた訳でもないし、毎日お祈りをしてる訳でもないです。
でも「神様の存在を信じますか?」と聞かれたら、「はい」と答えます。
人間も動物も植物もこの世に「生」を受けて生きる全ての物の存在を肯定し、
「何故、私はここにいるのか?」
「何故、私は今ここに生きているのか?」
その答えは「神様」の存在でしか自分の中で解決できないからです。
多分、本当の答えは、自分が「死」を迎えた時にわかるんじゃないかな?と勝手に思っています。
が・・・だからといって決して「自分の与えられた大事な「生」の期限を自ら縮めたり、いい加減な気持ちで毎日を過ごす」そんな気は全くありません。
私の母も又、熱心な「クリスチャン」ではありません。
なのに、何故か彼女の子ども(私を含め)4人とも、カトリックの幼稚園を卒園しています。(たまたまその頃住んでいた団地の徒歩圏内にその幼稚園があったからだと思いますが。)
でも、その後小学校4年生~中学2年生頃まで、電車に乗って毎週日曜日はプロテスタントの教会に通っていました。
ある意味、親のひかれた線路に沿ってまっすぐまっすぐ歩んできた私にとって、毎週日曜日に教会に行くことは、親からの「すりこみ」教育で、「行ってあたりまえ」のようだったので、何で通ってたのか、何で母が通わせたのか実はよくわかりません。
---------- そうだ、今度聞いてみよう。 ----------
でも多分答えは、(失礼な話ですが)単なる趣味の域かまたは、そういう世界観で相手を思いやり、自分に謙虚な気持ちで毎日を過ごし、恥じることなく真っ直ぐな姿勢で生きていってほしいという親の願いを代弁できる手っ取り早い方法として、子ども達を教会に通わせることにより、学ばせたかったのだと思います。
現にそういう意味では、知らぬ間に色々な事をしっかり学んだようですし。
キリスト教も、カトリック、プロテスタントと宗派が違いますが。。。
お祈りの時に必ず言うのが、
「私たちの毎日の生活の糧をお与え下さい。」
という言葉で祈ります。
この・・・「生活の糧」の「糧」って一体何でしょうか?
「糧」とは、毎日の「パン」、「食べ物、飲物」を差しています。
がこの「糧」を深く掘り下げてみると、ただ単に、「食べ物」「飲物」を指すのでなく、生きるためのすべてのものを意味するのだと思います。
かなり、受動的な考えですが、私たちの生活を満たす、なくてはならぬ物は、全て神様から与えられるものという意です。
では。。。例えば人にとって、わずかでも今日食べる「食べ物」と、粗末でも「着る物」と、雨露しのげる「住む所」=「衣食住」がそろったとします。
あと、人にとってとても大事な「必要な物(事)」って何だと思いますか?
私がきっとそうだと思う事があります。
「今日1日、自分のやるべき事。」です。
人は人としてこの世に「生」を受けて毎日を過ごし生きていくために必要なのは、「自分のやるべき事」なのでは?
と思います。
1日の生活の中で、
「私には何もすることがない」
「1つもやることが見つからない」
なんて事があったなら、自分自身が「無」自分の存在自身が「無」になってしまうのではないでしょうか?
「やりたいことが何一つ見つからない」ほど、人にとって退屈で、これほど面白くないことはないでしょう。
人として生きていて、忙しいながらも「自分にとってやることがある」「毎日やりたい事がある」って事はとても有り難く、大事な大事なことだと思います。
神様の存在を信じるか信じないかは別として・・・。
「毎日の生活の糧があることに感謝したい。」と切に思う私です。


。.:*・*:゜・*:.。. .。.:*・大の仲良しまあくんとの記念ショット・*:.。..。.:*・*:゜・*:.。

二人とも夜中12時過ぎてからのログインが多々なのでかなりの「夜更かしさん」同盟である。このツーショットを見つけたら、いじくってokですよ。


ミョ~なハイテンションと、タイミングと発する言葉と行動と笑いのツボと趣味趣向と・・・あらゆる点で場面で、まあくんと私は何故かマッチしてしまうんですが・・・。これって何だろう?
結果、いつもつるんでるっつーか。一緒にいて楽し~い!

パジャマでおねむモードで・・・家の中で花火・・・「あちち」「燃えるじょ!」
きゃはは。
載せられないのが残念ですが、人の家に侵入しては花火しまくって面白かったっす。(笑)
