紀子様が皇室に入る条件があった事は、広く知られている。これに関しては後述します。先ず、一般的に知られていることは、皇族の方の結婚に関する、儀式などが、皇室側が用意する事で、行われたことと言っていいでしょう。要するに、皇室側は、負い目を持ったまま、紀子様との結婚を認めざるを得なかった、言い換えれば、そうしなければ、ならない程の、弱みを持っていたことになる。
秋篠宮殿下は、結婚するにあたり、紀子様と結婚できないのであれば、皇室離脱すると、息巻いたらしいが、これは、入れ知恵であることは言うまでもない。そもそも、スペアの有用性は、あの当時、子供の生存率が関係していたことは言うまでもない。それを、逆手に取って、脅したにすぎない。それとて、自身の立場など考えていなかった、秋篠宮殿下が、 のうのうと暮らせる身分を、たった一人の女性のために捨てる発想はできないはずである。それを証明するのは、女性との関係を持つ為のサークル活動を自ら立ち上げていることを見れば、紀子様は、簡単に遊べる、女友達の一人に過ぎなかったはずである。
しかも、残されている、サークルの合宿の写真では、複数の男性のなかで、浴衣姿で紀子様は写っている。そういった存在でありながら、秋篠宮殿下は、彼女を選んでいる。と言うより、そうせざるを得なかった。
宮内庁関係者が、この結婚に対し一つの条件をつけたと言われている。授かり婚は認められないと言うことだったらしい。其れは当時の状況から、誰の子か確認できない。要するに、秋篠宮殿下の子供である確証が得られない・・・ということだったらしい。そして、紀子様はそれを承諾し、結婚することになった。この時点では、紀子様は、皇族になることを、最優先に判断したことになる。
そして、その時も、名言を残している。
「これで、豊かな生活ができる」
宮内庁との約束を守った、後のことであるのは、言うまでもない。
酷母となった日でもある。