三峡ダムを出発。長江にかかる大橋を渡ります。
黄陵廟の「山門(Shānmén)」
古い廟とは聞きましたが、中国の重点文物保護に指定されたのは2006年と最近のようです。
山門の石段にはプレートが貼られており、「長江の水がここまで到達した」との洪水の記録が分かる。
山門の壁には「大清光緒十弐貳年丙戌歳」など刻印されたレンガが積まれている。尚、光緒十二年は1886年になる。
こちらは黄陵廟の説明書き。
境内に入ると、舌を“べー”と出し、ほっかむりした狛犬君。ちょっと可愛くみえる…。
「禹王殿(Yǔwángdiàn)」
治水の禹を祀る廟だが、春秋戦国時期には既に廟があったと言われる。唐代大中元(847)年に拡張され、現存するこの建物は明代万暦四十六(1618)年のものだ。
また廟の一番上の額「砥定江瀾」は清代乾隆十四(1749)年に愛新覚羅・琪格という人物の書と言われる。
廟の下の額「玄功萬古」は明代崇禎十四(1641)年恵王・朱常潤という人物の書と言われる。
廟の前には六角形の碑が置かれている。
禹王殿のなか。柱には二匹の龍が絡みついており、奥には治水の禹の銅像(1988年に作られた)が置かれている。
禹王殿には1870年に起きた長江の氾濫の痕がこの柱に残ってる。
こちらは清代光緒十三(1887)年の禹王殿の修復後に出された規則。例えば「廟内に妊婦は入ってはならない」などの決まりが設けられた。
禹王殿の裏手にある「千年鉄樹(qiānnián tiěshù)」。葉をみてわかるようにソテツの木。言い伝えでは、諸葛孔明がこの黄陵廟を建て直した際に植えたと言われ、それば本当ならば樹齢1800年となる。尚、木の高さは6m以上という。
また禹王殿の裏手にはこの牛の像が置かれている。
この廟の「黄陵廟」の言い伝えはこうだ。
昔々、悪い12匹の龍がおり人々を苦しめていた。それを見かねた西王母(せいおうぼ)の娘の瑤姫(ようき)が鞘を抜きその12匹の龍を退治した。だがその龍の横たわった死体は石となり河を塞ぎ、上流の街が洪水となってしまった。死んでも悪さをする龍に困り果てた瑤姫は、黄河に住んでいた禹に三峡の地に河を切り開くようお願いをした。禹が三峡の地に到着し、地面を掘ろうとするも地盤は鉄のように固く、治水の禹の力でも思うようにはいかなかった。
瑤姫は困りに困り天に力を乞うと、天は一頭の黄色い雄牛を禹のもとへ遣わした。黄色の雄牛は、禹を助け渓谷を切り開き、ついには溜まっていた水を海へと流れ出た。人々が黄の雄牛に労おうとしたとき、その雄牛は山へ入り岩壁に自身の姿を残して消えてしまった。これより、人々はその山の麓に廟を建て雄牛を祀ったのだという。これがこの廟の言い伝えだ。尚、この雄牛の像は1997年に建てられた。
黄色の雄牛の像の斜向かいにある「武聖殿(Wǔshèngdiàn)」。
武聖殿の門には「神牛助禹(神の牛が禹を助けた)」という額が掲げられている。
武聖殿のなかにも黄色の雄牛の像が置かれている。
黄色の雄牛の像の左の壁には、天が雄牛を遣わせ渓谷を切り開いている様子の絵がある。
また右側の壁には、雄牛が消えてしまった後、人々が黄陵廟を建てたという絵がある。
武聖殿をでてきました。こちらにもソテツが育っていますね。
これは桜の花でしょか?ピンク色がとても綺麗です。
「武侯祠(Wǔhóucí)」へ入ってみましょう。
武侯祠には諸葛孔明(181~234年)の像が置かれている。言い伝えでは、後漢の建安十六(211)年、諸葛亮は蜀へと入る途中に黄陵廟に立ち寄り"雄牛が禹を助けた物語"を聞き感動して、廟を建て直したという。この現存する武候祠は1886年に建て直されたものだ。
こちらは、武候祠のそばにある"諸葛亮が納めた碑と言われる「黄牛廟碑」"がある。
諸葛孔明の碑に書かれている内容だ。すごく平たく言えば「蜀への道の途中に黄牛の物語を聞いた。惜しいことに廟は廃れている。私はこの廟を建て直す」という内容だ。
武候祠のまえにある「碑廊(Bēiláng)」
2012年、廟内に散らばっていた碑が集められ、この廊下が建てられた。21の功徳碑と10の記事碑がある。
清代光緒十二(1886)年、湖北宜昌総鎮の羅縉紳が黄陵廟を建て直した際に廟に奉納した自身の「虎」の字。
ここには、碑と併せて拓本などと一緒に置かれており、どのような字が刻まれているかわかる。
この碑にはここで豚を売り買いするなと書いてある。
奥に武侯祠。禹王殿の前の石段で腰を掛けている子がいます。
ではこれで黄陵廟は終わり。
つづいては屈原故里へと向かいます。