おはようございます
今朝もいい天気
今日から三連休でワクワクします
今朝の記事は、前回からの続きになります。
↓前回の記事はこちら
ブロックという言葉を聞いて皆さまはどう感じられるでしょうか?
これから書くブロックとは、自分の気持ちに蓋をして、自分の本当にしたいことを自分でセーブしてしまい、時に苦しさを自分に与えるものです。
そのブロックが外れたとき、解放感をもたらしてくれます。
その解放感を感じ、ブロック外しの楽しさを知ったのは、まゆみんの筆文字アートでした。
筆文字アートのレッスンで、常識というブロックが外れました。
そして、ブロックを外す楽しさを知りました。
考え方の癖というのは誰にでもあって、それは自分を助けることもあれば苦しめることもあります。
ひとは慣れた考え方の癖に基づいて考えることが安心で楽なのでそうしがちですが、偏った考え方や思い込みは視野を狭くし、自分自身を苦しめることもあります。
筆文字アートを通して、考え方の癖を緩めることで、知らずのうちに心が窮屈になっていた考え方を手放すことができました。
そして、ブロックが他のブロックを隠していることもあると気付きました。
ブロックは、自分の心を守ろうとする一つの防衛手段でもあります。
自分の本質的な願いをひとはそれぞれ心に抱えていて、その願いがひとから攻撃されないように幾重にもブロックを張り巡らせているのだと感じました。
表面的なブロックは、自分の本質から少し離れているので手放しやすいし、外れやすいです。
表面的なブロックは、心の柔らかい部分を守るためのより強固なブロックを隠すためのものでもあるのだと気付きました。
自分にとってそのブロックがなんなのかと、筆文字アートを受けてから無意識に考えていたことに、今回高野山を再訪することで気付きました。
高野山のレポを書くなかで、「あ、ブロックが外れた」と思いました。
私のなかでの最大のブロックは、「他人に好かれたい」という思いだったのだと気付きました。
この本で防衛機制について書かれており、記事でも防衛機制について触れています。
最初のブロック外しから7ヶ月。
一度ブロックが外れると次のブロックも外れやすくなるんだな、と思いました。
私は元々、「べき」「ねば」が強い人間でした。
そして、正義感が強いというか、「正しいこと」を貫きたいという思いがありました。
それにより、「間違ったことは言っていないのに、何故か人間関係がギクシャクする」ことも味わいました。
私は調和を大切にしたいという思いも強く、その調和を崩すような言動をするひとも許せなく思っていました。
娘の習いごとで、あるトラブルがありました。
陰口が大嫌いな私は、陰口を集まって言い、私が思う調和を崩そうとするひとたちに対して苛立ちを覚えました。
ただ、このトラブルのややこしいところは、娘が関係しているということでした。
自分自身のことだけなら元々ハッキリと意見を言うタイプなので言えるのですが、娘の友人関係に支障がでたり、「変な親」と周りが思うことで娘に対しても偏見の目を向けられたら困るな、と思い、言いたいことをセーブしていました。
それでも態度には出てしまっていたようで、私自身が陰口を叩かれるようになり、それがエスカレートして子供たちにもわかるくらいの状態になりそうでした。
私の置かれた状況により娘が習いごとをやめることになるのは嫌だったので、距離を置くこと、気づかないふりをすることにしていましたが、ストレスはかなり溜まりました。
結果、娘が習いごとをやめることを決めたので、これで解放される、とホッとしました。
他の子が気付いていたかはわかりませんが、最近娘がそれに気付いていたことを知りました。
「親たち、何やってるんだろうと思ってた。ママ、よく耐えられるなと思ってた」と言う言葉に、わかっていて黙っていられる娘は凄いな、と思いました。
この時の経験から、「正しいことが正しいとは限らない」と知りました。
この経験は辛いものではありましたが、自分にとって大きな学びを与えてくれるものでもありました。
「べき」「ねば」というブロック、「正しさ」というブロックが少し外れました。
この経験以降、以前のように「正しさ」に拘らなくなりました。
そして、自分自身というものを見つめ直すきっかけにもなりました。
そんななか、ブログを始めるようになり、ブログでの交流がきっかけであさこさんの潜在数秘術のセッションを受けました。
「潜在数秘術」
このセッションを通して、自分が間違っていたのかと自分を責めることをやめられるようになりました。
自分の性質が理解でき、自分を赦すことができました。
私は自分に対して厳しい方だと思います。
何かあると、他人に原因を求めるのではなく、自分を責めてしまいます。
それは、自己肯定感の低さが原因だとこの3年3ヶ月の間に気付きました。
自己肯定感は、自分で自分を信じることで生まれると思います。
この記事で書いているのですが、私の自己肯定感の低さは幼少期からの母との関係に由来しており、自己肯定感を回復できたのは、夫と結婚して娘の母になれたからです。
そして、私が大切に思う友人たちが、私の個性が好きだと言ってくれ、私を大切にしてくれることで、自分が価値ある人間だと思えるようになりました。
悩み多かったこの3年3ヶ月を乗り越えられたのは、家族と友人たちのおかげだと思っています。
自己肯定感が低く、自分で自分を認められないために、誰かに評価されることで安心感を得ていました。
だから頑張り続けたし、強い自分が好きでした。
でも、家族や友人たちは、私が自分で駄目だと思う私を許してくれ、そんな弱い私でも大切な存在だと言ってくれました。
その繰り返しにより、私はこの3年3ヶ月の間に自己肯定感が回復できたと思います。
実は高野山に行く直前に、職場で自分のADHDの特性のためだな、と思われることから上司の方に注意を受けました。
仕事が好きすぎて、「仕事ができない自分は価値がない人間」だと思い込んでいた以前の自分なら、「やっぱり自分はダメな人間なんだ」と落ち込んでいたと思います。
でも、私がADHDの記事を書いたとき、私の大切な友人があるメッセージをくれました。
ADHDでも、あなたのままでいい、というところがめっちゃよかったよ。ホントその通りだと思う!
ていうか知ってる?あなたはホントその全てが良いから!わたしも含め、おそらくあなたの周りの全ての人は、あなたが大好きだよ。
その誠実でひたむきで、頑張ってる姿を見ていると、あーこういう人になりたいなぁと思うわけ。でね、その誠実、ひたむき、頑張り屋、っていうところがあるから、うっかりミスなんて霞んで見えるの、ていうか周りは気づかないくらいかもよ?それくらい、良さが際立っているんだよ。
私信を載せるのは恐縮なのですが、自分の言葉に置き換えると伝わり方が変わってしまいそうなので、少しアレンジしてそのまま転記させてもらいました。
この友人は、いつも私を掬い上げてくれる言葉をくれます。
私が自分で自分を信じられなくなるタイミングで、思いがけない言葉をプレゼントしてくれて、私の自信や自尊心を回復させてくれます。
私自身がこの友人の生き方や考え方が大好きなので、より心強く感じます。
このエッセイのなかで、セーフティーネットについて触れられています。
「数えられるからこそ」から、引用です。
小さな幸せは、たくさん集まるといつの間にかセーフティネットになるのだと思う。
人生は決してどの段階になったから楽になるってものじゃない。いつでも理不尽でたいへんで思い通りにならなくて、切なくて苦しいものだと思う。
小さな幸せは、たくさん集まっても決して大きな幸せにはならない。
でもふと人を救ったり、よく眠らせたり、他の人に伝染したりする。
それが最終的にはたまたまそこにあった網みたいに落ちていく本人を救うことがある。
私には、家族や大切な友人というセーフティーネットがあります。
すべてのひとに好かれなくても、自分が大切に思うひとに大切にされているからそれで十分で、たとえ何か行き違いがあり、誰かに誤解されたり、嫌われたとしてもそれはそれでいい、と思えるようになりました。
今のタイミングでダブルワークを始められたのも良かったと思います。
ダブルワーク先は、私に看護師として働く自信をくれた場所で、今の私を労働力として必要としてくれているため、看護師としての自分に自信をくれるからです。
高野山に再訪したことで、思いがよりクリアになりました。
幼い頃からの自己肯定感の低さからくる自信のなさ、そのために「他人に好かれたい」と思うブロックが外せたように思えます。
今、とても心が自由です。
だからといって、好き勝手に振る舞っていいというわけではなく、ひととの調和を大切にしたり、ひとへの思い遣りを忘れないというのは大原則ですが、ひとから好かれようと自分を偽ったり、必要以上に合わせようとしなくていいんだな、と思います。
高野山に向けての集合場所に向かう電車のなかで目に付いたポスターです。
きむさんの言葉は、新しい道に踏み出そうとして選んだ葬儀会社に初出勤する日にも勇気づけられました。
言葉の力って凄いなあ、と思います。
長くなりました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございます
これにて高野山レポ終了です
今日から三連休
今日は夫と結婚式に出席してきます。
結婚式に出席するのは久しぶりです。
誰かの幸せに立合える幸せを感じてきたいと思います。
それでは、また