認知症の人の心の中はどうなっているのか?
(佐藤眞一 著)



こんにちはニコニコ
本日2つ目の記事で、認知症についてです。


「認知症」の方に対し、私は特別な思い入れがあります。
それは、私が小学生の頃に祖父が認知症を発症し、そこから10年以上の歳月、祖父自身も私たち家族も辛さや寂しさを味わったからです。

その経験が私が看護師を志す原点にもなりました。

以前にも認知症を患った母と息子の情景を描く「ペコロスの母の玉手箱」を記事にしています。


私は今、有料老人ホームで楽しく働いていますニコニコ

今の職場に入るにあたり、認知症患者さんについてより知りたいと思い、今日ご紹介する本を手にとりました。

この本の著者、佐藤眞一さんは大阪大学大学院人間科学研究科臨床死生学・老年行動学研究分野教授、博士であり、「老い」についての著作を多く出されています。

また、2016年に本書でも紹介されている、日常会話によって認知機能を評価する方法(尺度)であるCANDy(キャンディ)Canversational Assessment of Neurocognitive Dysfunctionを開発された研究グループの一員でもあります。

以下、本の内容です。


15項目をチェックするために、30分以上時間をかけて行います。一気に15項目チェックしなくても、複数回に分けて、複数回の会話の合計が30分以上あればいいとのことです。
あくまでスクリーニング(ふるい分け)が目的で、診断の確定のためには、画像検査も含めた専門医による詳しい検査が必要です。

認知症検査には、「MMSE」や「長谷川式認知症スケール」がよく用いられますが、高い信頼性や妥当性はありますが、問いに正解・不正解があり、能力を試されていることがはっきりわかるという問題があります。

混乱しやすい認知症の方にとって、苦痛を与える検査でもあると私も思います。
試されるって気分の良いものではありませんし、わからないことについて次々尋ねられるって苦痛ですよね…ぐすん

CANDyは会話のなかでの確認なので、認知症の方にとって負担の少ない検査方法ではないかと思います。


長くなりますが、【はじめに】から引用します。

ゼミの学生たちを連れて、認知症のお年寄りが暮らすグループホームに行くと、学生は初め、うまく会話できません。お年寄りに、「お昼ご飯は何を食べましたか?」とか、「お正月は家に帰ったんですか?」などと尋ねてしまうためです。
 30分前に食べたお昼ご飯のことや、10日前のお正月のことなど“覚えているのが当たり前な自分"を基準に話しかけてしまうのです。お年寄りは、孫のような学生の問いかけに答えようとしてくれますが、答えることができません。

(中略)

 ということは、比喩や皮肉、シャレ、含みのある言葉などが、わかりにくいことを意味します。けれども私たちは、それらがわかることを前提に会話していますから、お年寄りの返答を奇異に感じ、会話が続かなくなります。
 介護の場面では、お年寄りを傷つけないようにと、婉曲に言ったことが通じない。一方で、お年寄りの方は婉曲表現ができず、自分のしてほしいことをストレートに言ってしまうため、「わがまま」だと思われる。そんなことがよくあります。
 さらに、ついさっき同じことを言ったのを忘れて、お年寄りが何度も繰り返し同じことを言うと、私たちは「忙しいからあとにして」「さっきも同じことをストレートに言ったじゃないか」などと答えてしまうことがあります。答える方に悪気はないのですが、言われた方にすれば、これは「あなたとは話をしたくない」という拒絶の言葉です。
 このように、認知症になると、会話がすれ違い、人とのコミュニケーションがうまくいかなくなります。相手の言うことがわからない。言いたいことを伝えられない。話したいのに、なぜか相手が怒ったような顔をして離れていく。そんなことが繰り返し起こったら……。とてももどかしく、寂しく、やり切れない気持ちになるのではないでしょうか。
 そして、ただでさえ支障の出ている生活が、さらに不自由になっていきます。意思の疎通ができればスムーズにいくことや、手助けしてもらえることが、意思の疎通ができないために、うまくいかなくなってしまうのです。

(中略)
 医療では、副作用の割に効果が低いとの理由で、アリセプトなどの認知症薬の保険適応廃止が、ヨーロッパで始まりました。認知症の根本的治療は、いつできるのか目処も立っていませんし、生活改善やサプリメント、訓練などで認知症を治すこともできません。
 このような、いわば手詰まりの状況の中で、最後の砦は認知症ケアです。認知症になっても自分らしく幸せに暮らすためには、ケアの質を高め、ケアをよりよいものにしていくことが、現状ではほとんど唯一の方法だと言ってもいいでしょう。
 そして、ケアの質を高めるには、認知症の人とのコミュニケーションがとても重要です。認知症とは、端的に言えば、認知機能の低下によって「日常生活に支障が出た状態」であり、日常生活はコミュニケーションによって成り立っているからです。

(中略)
 つまり、認知症ケアでは、いかにコミュニケーションを図るかが、とても重要です。私たちが認知症ならではの会話の特徴を知り、その特徴に合った会話をした心がけてコミュニケーションを図れば、認知症の人の孤独感や疎外感が緩和されて、生活もずっとスムーズになるはずです。

(中略)
 では、どうすれば認知症ならではの会話の特徴を知り、コミュニケーションを図ることができるでしょうか。認知症の人の心を知り、喜びを分かち合い、日常生活を穏やかに、スムーズにすることができるでしょうか。
 本書では、それをあなたと一緒に探っていきたいと思います。なぜならば、認知症の人を知ることは、将来の自分を知ることでもあるからです。

(中略)
 さらに、85歳以上では、55パーセントの人が認知症になる、との統計もあります。
 誰もが認知症になる可能性があり、誰もが認知症の人を介護する可能性があるのです。






認知症になっても、感情は失われません。
味覚も劣える面はありますが、維持されることも多いです。

意志表示ができない方の食事介助をしているとそれが凄くわかりやすいのですが、好きな食べ物のときは口の開け方や動かし方、飲み込むスピードが違うのです。

時間をかけすぎると食べることに疲れてしまうので、飲み込みの状況を見ながら、むせがないように、いかに安全に効率よく食べてもらうか(水分が必要な方には水分メイン、タンパク質が必要な方にはタンパク質を先に、など)、食事介助は奥が深く、食べられる量は自分の介助の仕方にも大きく左右されるので、私の好きなケアの一つですニコニコ
病院では介助が必要なひとが複数いて、病室から動かせないこと、食事時間が決まっていることから、「もっと食べられるのに」と思いながら食事介助を終了せざるを得ず、悔しい気持ちになることが数限りなくありました。
今の職場では、たとえ2時間かかっても、その人らしく食事がとれる環境を用意することができます。



私が認知症ケアが好きなのは、看護師のケア能力がわかりやすく結果として出るからです。

認知症の方は、不安で揺れる世界のなか生きています。

前後の繋がりがわからなくなるので、ここがどこで、今何時で、今何をしていいかわからないような状態です。

認知症患者さんを思う時、私は黒い壁紙の、窓もない小さな部屋に閉じ込められた状態をイメージします。
認知症の進行度合いにより、まだらで時には状態を把握できるとき、少しわかるとき、全くわからないとき、様々な状態がありますが、「不安な気持ち」は共通していると思っています。

声かけの仕方ひとつで認知症の方は穏やかに過ごせたり、不穏になったりします。

認知症の方の世界は揺らいでいるので、例えば入院などの大きな変化に反応を起こします。

その反応は、病院のなかでは「問題行動」とされます。

でも、自分の身に置き換えてみると、わけもわからず連れてこられ、身体の動きを制限される点滴や尿の管などを入れられ、自身の体調も悪いとなると、認知症患者さんが病院で起こす問題行動は至極当たり前なことだと思います。

有料老人ホームで一番感じるのは、認知症の方が穏やかな顔をしていることです。
それを見ると、病院でのことを思い返して癒されます。

ホームでも、時に混乱されることもありますが、説明したり、ほかの話に切り替えるといった対応でおさまることがほとんどです。


不登校、発達障がいについての記事で、問題を問題と思うから問題になると以前書きました。

これは認知症患者さんへの対応を考えるひとつの大きなキーワードだと思っています。


私は、認知症の方の「ありのままさ」が好きです。
認知症の方であれば我慢したり制御できる感情を自分の感情を認知症の方はコントロールできません。


でも、そこにはその感情が起こり、行動に繋がる認知症の方なりの理由があるのです。

私はそれを紐解いていくのが好きで、自分がHSPであることが役立つと思える部分です。
相手の視点に立ってみて考えてみれば、奇異に思える行動も理解し、共感できると思います。

そして、その視点を持てるかどうかで認知症の方への関わり方が変わってくると思うからです。


また、【はじめに】にも書かれていましたが、目の前にいる認知症の方が将来の自分や親だと想像してみると、どんな声かけをしたいか、変わってくると思います。

私は、祖父の時には充分にできなかった「安心して過ごせる場所や時間を提供する」を看護師として行っていきたいと思いながら今、働いています。


今日ご紹介した本では、人に見せたくない自分を見せてしまう苦しみについて書かれていて、それが胸に刺さりました。
(前略)このような自慢話は、微笑ましくもあり、聞く方はさほど苦になりません。
 けれども、本人にしたらどうでしょうか。それが自分のアイデンティティと深く関わっていることを、人に知られたいと思うでしょうか?本来ならば、ときに自慢することがあっても、「これは単なる事実であって、別にどうってことはないのだけれど」というポーズを取るのではないでしょうか。

ひとはみな、隠したいことのひとつやふたつあると思います。
私は認知症の方の「ありのままさ」を愛しく思いますが、それを知られることを本当はそのひとは望んでいないのかもしれない、という視点は大きな気づきをもらえました。

認知症の方の会話でよくみられる「とり繕い」も、他人からどうみられるかを意識し、自分を保ちたいという思いから起こるものだな、と改めて思いました。


認知症について学べるだけではなく、自分のケアについて振り返る機会を与えてくれる一冊で、良書だと思いました。


以前に認知症に関する二日間の研修に参加したときの資料もあわせて貼ります。



この研修は、大きな学びのある研修でした。
認知症についての研修にはこれからも参加していきたいと思っています。



1月18日から働き始めて早くも1カ月以上が経過しました。
今、深い満足感とともに働けています。


今までの11年間の看護師経験や他の職種を経験してきたことが活かされているのと、自分の原点である「認知症看護がしたい」という思いが満たされているからです。

今の職場に勤め始めて、自分が「生活援助」を大切にしながら看護をしたかったんだと気付きました。


病院では、治療が優先です。
効率性が重視され、治療効果の高いひとから優先度が上がり、費やせる時間も変わります。

そのような環境で、認知症患者さんに余裕を持って接することは難しいです。
食事介助や保清ケアに費やせる時間も限られています。

私のなかでも「看護師=医療にあたる者」、という思いも強くあり、医療知識を身につけ、実践する看護師が凄い看護師であり、自分もそこを目指さないといけないという思いがありました。


でも、それは刺激的であり、今も自分を助けてくれる知識や経験を私に与えてくれましたが、心底したいことは「認知症ケア」であり、「生活援助」だったのだと気付きました


ディサービスで働いていた時期があり、スタッフさんにも恵まれ、利用者さんとのコミュニケーションは楽しかったのですが、どこか物足りなさを感じていました。

看護師としてのアセスメントの機会が少なかったからです。

41歳という年齢や看護師歴が11年弱ということもで、まだまだ学びの段階だと感じました。
ディサービスでは60〜70代の方が看護師として働いておられました。
娘の進学や、自分たち夫婦の老後の生活を考えるともう少し稼ぎたいのもありました。

そこで日勤常勤での病棟勤務を選びました。

こちらでもスタッフに恵まれ、業務内容も適度なものだったのですが、医療の現場では命を預かり自分のアセスメント一つで患者さんの予後が変わることに対する不安や、認知症の患者さんへの対処に疑問を覚えてしまいました。


3ヶ月という短い期間ではありましたが、葬儀社に入り、外の世界から看護師をみました。

看護師としてそれなりに臨床経験を積み、そのなかで色々な気持ちを味わい、色々考え、看護師に戻ることに決めたタイミングで、ご縁があって今の職場に巡り合えたことに感謝しています

季節感を大切にするイベントは和む…



私は考えすぎる性質です。
そして、「よりよくありたい」という思いが強いと思います。

理想は大切にしながらも、自分を追い詰めることなく毎日を楽しんでいきたいな、と思います。


明日はひな祭りですね🎎
明日は彩ふ読書会の日でもありますニコニコ音譜音譜

久しぶりに、午前午後楽しんできたいと思います。
なぜならば、午後の課題本がよしもとばななさんの「キッチン」だから…!!!!


帰宅してからは娘とひな祭りを楽しみたいと思いますラブラブラブラブ


昨日娘が作っていた、市販のクッキーにアイシングしたもの…。
短期間でアイシング技術が進化しているのですが…ポーン


それでは、またニコニコ音譜音譜