激動の毎日です。
朝決まったことが夜にはひっくり返る。
こんな歴史の教科書で見たようなことがまさか自分の身に起こるとは…なんて思いつつ。
皆様、いかがお過ごしですか。


さて、今夜は刀ステナイト二夜目。
昨晩から唐突に始めた勝手な企画ですが、今晩も続けます^ ^
だって、近所の本屋もしまってしまって、他にやれること何もないし!!!
というわけで、いってみよ〜!!!



舞台「刀剣乱舞」 虚伝・燃ゆる本能寺(再演)


昨晩観た同題の作品の再演。
初演がものすごい人気で、興行的に成功することが明らかになったためなのか、はたまた元々決まっていたのか…真相は分かりませんが、初演の大千秋楽には、恐らく既に決まっていたこの舞台。
実は、初演とはいくつか大きな違いを作ってきたのです。
まず一番分かりやすいのがキャスト変更。
江雪左文字と鶴丸国永を演じる俳優が変更になりました。
もちろん当初は、単純に「大忙しの若手人気俳優だし、スケジュールがつかなかったんだろう」と、誰もが思った…はず…なのだが。
演出家の「キャスト変更にも意味がある」というような意図のコメント、そして数年越しの「ああ…このためか…」と思わされるような大事件が発生するのですよ…。
そう、このキャスト変更は、この時にはパッと見て分かる程度の違いだった。大きな。

そして二つ目は、立ち位置。
お気づきでしょうか…役者の出捌け、殺陣の振りから何から何まで…。
逆なんです。まるで鏡のように。
これ、見比べてみないとあんまり分からないんですよ、たぶん。でも、全部見事に逆なんです。
公演を重ねるうちに、あるいは再演を重ねるうちに、舞台上で想定されるものの位置が逆になることはままあります。
会場の都合で、上手にしか空間的な余裕がないから、この家の玄関は下手から上手に変更しよう、とか。
けれど、この場合の変更はあまりにも徹底されています。明らかに会場の都合ではない。意図された演出上の「反転」。
鏡映し。
ね。ぞくっとするでしょう。

そしてさらにぞくっとするのは、歴史上の人物たちの感情までが、初演の時と違うことです。

刀剣乱舞というのは、そもそも歴史を変えようとする者たちを止め、「あるべき歴史」を守る戦いに、数々の日本刀の付喪神達の力を借りる、という設定のゲームです。
もちろん、この舞台「刀剣乱舞」も、その設定を忠実に引き継いでいる。
それならば、歴史上の人物達が変わるわけはないんです。


そうですよね。
…本当に、歴史が一つなら。


でも、この作品、初演と再演で、特に森蘭丸の振る舞いが全く違うんです。
それが分かりやすいのは比較的序盤の、蘭丸と光秀のやりとり。実は昨日のブログでも少し触れたのですが。
織田信長のお気に入りだった短刀不動行光を、森蘭丸が拝領した直後のシーン。
初演では、蘭丸はいかにも天真爛漫な様子で、たまたま行き合った光秀へ不動行光を見せびらかします。そして、思わず光秀がそれに手を伸ばすと、蘭丸は慌てて不動行光を胸元に抱え込む。
ところが再演。
蘭丸は、不動行光を拝領したことに、何か不吉な予感を感じているらしいのです。俯いて、元気のない様子で光秀と行き合う。そして、大切な短刀に伸ばされた光秀の手を、避けようとしないのです。結果、光秀の方から、不動行光に触れることを避ける。



…ぞくっとするでしょう…?



つまり、この二つの事象は、同じ歴史ではないのです。たぶん。
大切な主人から大切な刀を受け取って、単純に喜ぶ小姓と、嫌な予感に沈み込む小姓とが、同じ歴史の人物であるわけがないじゃないですか。


つまりこの物語は、最初から仕掛けられていたんです。
同じ題名、同じ台本。ほとんど同じキャスト。
その「ほとんど」が、はなから我々に仕掛けられた伏線だったんです。

たぶんね。





もちろん、本当のことは分かりません。
舞台「刀剣乱舞」は、まだ長く複雑な物語の途中ですからね…その物語の全体像は、作者である末満さんの脳内にしかないのでしょうから。(あるいは側近中の側近のみぞ知るというところでしょう)
くぅぅうううう…!!!!!
こんな頭脳が欲しいよぅ!!!!!!





閑話休題。(いつものやつ)



兎にも角にも、本能寺の変というのは、本当によく話題にされる歴史事変です。小説なんかでも、頻繁に題材にされる。
そんなある意味使い古された事件を取り上げて、じゃあこの作品がなにをテーマにしたかといえば。

「織田信長とは何者なのか」

作品の中でも、台詞として何度も繰り返されるその問いかけ。
尾張大うつけ、第六天魔王、覇王、天下人…薬研藤四郎のセリフの通り、人々から様々な二つ名でその存在を規定され、恐れられたその男は、本当のところ「何者」であったのか。
それは誰が彼を見るか、どう彼を見るかによって違った。恐らく。
織田信長は実在した人間でありながら、その実存は虚であった。そういう意味なんじゃないかと思うんです。

そう。だから、虚伝。
誰も、本当の彼を知らない。
彼を愛した人も、彼に愛された人も。人だけじゃない、物も。
刀は道具。その付喪神たちは、自分を慈しみ、存分に使った人々の、その人生を、その物語を背負いながらも、本当の心のうちまでは分からない。
人も、刀も、同じなのだ。
愛した人の心は、どれほど愛しても、所詮は虚ろ。



悲しいね!!!泣



そんなわけで。
私が最も注目したい刀剣男士の芝居。それは不動行光が、蘭丸へ放った宗三左文字の一撃を止めるところ。
「俺たちは、こんな理不尽なことと戦わなくちゃならないのか…!!」
このセリフです。
怒りとも嘆きともつかない、あまりにも哀しい叫び。歴史を守るために戦う宗三を責めているわけではない、けれど、どうしても問わずにはいられないというような。
こっちまで苦しくなるような不動の嘆き。

でも、これ、個人的には初演の方が好きだったんです。
それは上手い下手ではなく、本当に単純に好みとして。
というのは、初演の不動の方がもっと純粋に怒ってた気がするからなんです。再演は、どこか仕方がないと思っているような感じがした。怒りというよりは、運命の理不尽をただ嘆いているような感じがしたんだよな…。

しかも、ここだけじゃありません。

不動が最後、光秀に対して刀を振り下ろそうとするシーン。
彼は薬研と長谷部にそれぞれ問うのです。
「教えてくれよ薬研…あんたの信長様も光秀に討たれなくちゃならないような人なのか」
「教えてくれよ長谷部…あんたの信長様も、本能寺で死ななきゃならないのか」
それは、初演では問いではなく嘆きだった。再演では、問いになってた。
私は、これも初演の方が好きだった。けど、好きか嫌いかとは別に、初演と再演の明らかな差別化は、たぶんこの後の伏線になってたと思うんです。
その微妙な違いは、たぶん意図された演出だったのでしょう。あるいは、二度の公演を通じて役者本人が生み出した偶然の至宝たる違いであったか…本当のところは、分かりませんが。

しかし、とにかく。
この「虚伝・燃ゆる本能寺」については、たぶん題名が同じだから片方観たしOK!って思ってた人がいると思うんですよ。だって再演でしょ?って。私もリアルタイムに刀ステ見始めてたらそう思ったと思うんですよ。

でも。
違うんだ。
初演と再演は、もはや全く違う物語だと言えるんですよ、本当です。
そしてこの舞台「刀剣乱舞」のストーリーを考えるための、初手であり、把握しておくべき最も重要な布石であると思うんですよ。


つまりなにが言いたいかと言いますと。


お願いします。
虚伝は初演も再演も観てください!!!!!


あー…またこんなに長くなってしまいました。
本当に、ダメですね…音声入力どころか思考入力したい。指が疲れてきましたよ(´・ω・`)
とりあえず、まだまだ推しどころや語りどころは尽きないのですが、もう色々あって眠いので、今夜のところはこの辺で。

マジで、こういう機会に刀ステの円盤、まとめて観てください!!すごいから!!!



明日も行けそうなら刀ステナイト、続けたいと思います。
次は「義伝・暁の独眼竜」ですな。
来るぜ、次回の主役である風流男の初登場が。

お付き合いいただけましたら、大変幸い。
それでは、どなたさまも、お健やかに。