昭和19年8月19日が祖父の命日

墓石には、そう日付が刻まれている。

 

航空母艦とともに海に沈んで戦死したと聞いている。

飛行機の「整備兵長」

祖母が墓石にそう刻んでいる。

 

私の手元に、祖母が残した1冊の小冊子がある。

看護師として70歳まで働いた祖母だったが、

定年を過ぎたころ、来し方をふりかえって歌のかたちで綴ったものだ。

 

 

「吾児」というのが私の父で、

父の出生届を出して間もなく祖父は出征、戦死した。

 

祖父の消息については、上の祖母の言葉がほとんど全てだった。

乗っていた船の名前も、私は聞いたことはない。

祖母も父も知らなかったのだろうか。

 

実は、戸籍に記載されている命日は、墓石に刻まれた日にちと異なる。

戸籍では、昭和19年8月10日戦死となっている。

「昭和19年8月10日時刻不詳西洋群島方面において戦死佐世保海軍・・・報告昭和20年7月21日受付」

戦死から1年近くたっての報告。

 

私はずっと戸籍の方が正しいのだろうと思っていた。

 

けれど今回、墓石の命日を見た息子が、

昭和19年8月19日近くで沈んだ船をインターネットで調べてくれた。

すると、ちょうど墓石の命日の前夜に沈没した船が一隻だけあった。

しかも航空母艦だ。

 

Wikipedia によると、

昭和19年8月18日午後10時28分、米潜水艦の雷撃を受け、

魚雷1本が右舷後部に命中、

艦底部ガソリンタンクが300mの火柱のあがる爆発を起こし、

弾薬庫を誘爆させ、左舷側のタンクも爆発し・・・、とある。

沈没の仕方も「燃えほそる航空母艦よ我が夫よ」と書いた祖母の言葉とよく一致する。

深夜に沈没し、

その翌日が、墓石に刻まれた祖父の命日だ。

 

沈没位置は北緯18度12分 東経120度22分

ルソン島西岸あたりだという。

この位置が「西洋群島方面」に当たるのかどうか私にはわからないけれど、

息子が調べてくれた範囲では、8月10日戦死では、これかと思う船はない。

 

航空母艦大鷹戦没者慰霊碑が佐世保にあり、

「艦沈没時、運命を共にした477名をふくむ484名を祀る」とある。

この477名の中に、私の祖父もいるのだろうか。

佐世保に行けば、477名の名前が刻まれているのを見ることができるのだろうか。

 

祖父はいったいどんな気持ちで死んでいったのだろう

怖かったであろうし、苦しかったであろう

戦争は、悲しみでしかないと思う。

 

きょうは沖縄返還50年、式典をテレビで中継していたのをちらっと見た。