リテラからです。

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特攻隊として戦地に送られた犬、毛皮のために軍に供出されるペット…あの戦争では犬や猫も悲惨な目に!


2015.08.13
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森田敏彦『犬たちも戦争にいった 戦時下大阪の軍用犬』(日本機関紙出版センター)

 戦後 70年という節目を迎えて、メディアでは戦争の悲惨さや残酷さについて振り返る企画が組まれている。戦争とは、多くの人の命や尊厳を踏みにじるもの──そのことをわたしたちは忘れてはいけないが、同時に戦争は、犬や猫といった動物 たちの命も奪ってきたという事実にも目を向けたい。


《勝つために犬の特別攻撃隊を作つて 敵に体當りさせて立派な 忠犬にしてやりませう》


 この文言は、「犬の献納」を呼びかける回報に書かれているものだ。特攻隊として敵に体当たりしてこそ、真の忠犬になれる……そんなまさかと思うが、そのまさか。戦時中には多くの犬が国に奪い取られ、軍人さながらに見送られて戦地に「出征」しているのだ。


『犬たちも戦争にいった 戦時下大阪の軍用犬』(森田敏彦/日本機関紙出版センター)によると、犬は第一次世界大戦時から嗅覚と聴覚を買われ、戦場で重宝されるようになった。満州事変後には関東軍が軍犬育成所を開設し、満州線路の防衛や“ゲリラ狩り”にも駆り出されている。敗戦にいたるまで〈日本本土から五万頭が、満州を含めると一〇万頭の犬が戦場に送られたと推測されている〉という。


 こうした「軍犬」の活躍は頻繁に新聞で伝えられた。それは〈勇敢な犬と、犬をかわいがるやさしい兵士〉という印象付けのほか、〈犬さえも勇敢に働くのに、ましてわれわれ人間はがんばらねばという気持ち〉にさせるためだ。だが、実際には新聞で勇ましく語られるほどの成果をあげておらず、第一軍用犬養成所の主任は、〈戦場における軍犬の使用は損害のみ多くて、あまりはなばなしいところはない〉と記している。まさに“犬死に”を強いられていたようだ。


 しかし、戦争に巻きこまれたのは、軍犬として訓練・出征させられた犬だけではない。『犬やねこが消えた 戦争で命をうばわれた動物たちの物語』(井上こみち/学研)が明らかにしている1944(昭和19)年12月15日付の軍需省から出された通達には、こう書かれている。


《軍需毛皮革ノ増産確保、狂犬病ノ根絶、空襲時ノ危害除去ヲハカルタメ、一切ノ畜犬ハ、アゲテ献納、モシクハ供出サセルコト》


狂犬病をなくすため、空襲で犬が暴れる危険を防ぐため、そして軍需用の毛皮の確保のため、犬を国に供出しろ──。こうして多くの一般家庭では、ペットとして飼っていた犬を手放さざるをえなくなった。

 毛皮にするために家族 同然の犬を国に渡さなくてはいけない、そのつらさとはどれほどのものであったか。前出の『犬やねこが消えた』では、そうした飼い主たちの苦しみが当事者の言葉で語られている。


 1944(昭和19)年の6月、学校 帰りに泥にまみれた子犬を拾ったある少女。やせ細ったその子犬を「クロ」と名付け、人間が食事 を摂ることもたいへんな時期だったにもかかわらず、少女は子犬を一生懸命育てた。そんなとき、「供出」が命じられる。


 供出の前日、少女とその母は、おからを混ぜた雑炊にたっぷりのかつお節粉をまぶし、いつもより倍のごはんをクロに食べさせた。そして、いままで行ったことがない場所まで散歩に出かけた。そこでクロを放せば、明日、警察 に連れて行く必要もない。そう考えたのだ。でも、くさりを外しても、クロは少女のもとから離れようとしなかった。


 翌日、クロは供出される。クロはその道すがら、何度も電柱におしっこをひっかけた。匂いづけをしても、もうそこには戻れないのに──。この少女時代の体験を語った女性は、〈六十年以上たった今でも、(中略)手のひらには、クロのひげの、こそばゆい感触が残っている〉という。


 飼い犬を供出しなくてはいけなかった人びとの苦しみ、悲しさもさることながら、犬が供出されたあとの業務を担った人の証言は、さらに重い。


 1945(昭和20)年、北海道に住んでいた当時15歳だったある少年は、友人から「いい仕事がある」と誘われた。向かった先で、少年は〈国民服に戦闘帽の、こわい顔をした男性〉に「これからおまえたちには、お国のため、軍隊のために働いてもらう」と言われ、一本の丸太棒を手渡されたという。


「大事な資源なので、そまつにあつかってはならない。毛皮に傷がつかないように、一発で殺せ」


 その場所には、次々に犬や猫、うさぎを連れた人びとが集まってきた。〈うつむいてすすり泣いている女の人〉や〈ねこを抱きしめている女の子〉……人びとは動物 を供出するためにやってきたのだ。少年は、〈力いっぱい棒をふりあげ〉たという。


〈犬はなぐられるまでじっと座っていました。(中略)ふと横を見ると、飼い主らしい人が、ふるえています。歯をむきだしていかくするので、何人もでおさえつけなければいけない犬もいました。犬やねこが叫びはじめると、おさえている人をふりきって、にげだす犬がいます〉


〈比較的おとなしい犬はともかく、ねこをなぐりつけるのは、とても難しい仕事でした〉


 こうして殴り殺された犬や猫は、その後、皮をはがれ、皮は塩と一緒に稲わらで編んだ袋に入れられた。皮を腐らせないために塩漬けにするのだという。


 少年にとって仕事が最後となった日のこと。その日、何匹もの猫が殴られることに抵抗し、近くにあった木の枝に逃げた。猫たちは葉のない枝にしがみついたという。その木を見て、この少年は思う。


「まるでねこの木だ! ねこの木がふるえている」

 

少年は、めまいでその場に倒れたという。


 この証言をした男性は、77歳になったいまでも〈犬をだいた悲しそうな女の子の横顔〉を夢に見ると語っている。そして、「あんなバカげたことをさせる戦争を、二度としてはいけないよ」と話す。


 人が平気で殺し殺される世界では犬や猫の命ぐらい、と言う人もいるかもしれない。でも、証言者のおじいさんやおばあさんたちは、そのときの犬や猫のあたたかさを忘れられないまま、心に痛みを抱えている。いま、犬や猫と一緒に暮らしたり、愛くるしい動画に癒やされているという日常、それもまた、かけがえのない平和というものなのだ。


 人の命を軽んじる戦争を、わたしたちは徹底して憎み、拒まなくてはいけない。そう、戦争によって殺されてしまった犬や猫のためにも。
田岡 尼




以下は、dot.より。

http://dot.asahi.com/wa/2015081200068.html


戦場のような学校、愛犬も供出 子供たちが体験した戦争


(更新 2015/8/14 11:30)


戦時中、国は多産を積極的に奨励。子供たちは空腹に耐えながらも国を信じ続けた。軍のために食料や燃料を集め、家族同然のペットも差し出した。編集部に寄せられた読者の体験談から、もうひとつの戦場で彼らが生きた記録をたどる。

 学校は、まるで戦場だった。昭和18年、富山市の神通中学校1年生だった下村正行さん(85)は、ゆくゆくは陸軍士官学校か海軍兵学校を目指していた。中学では軍事教練と柔道、剣道のほかに銃剣道が正課だった。

「柔道場の隣は武器庫で、扉を開けると38式歩兵銃がズラリと並べられていて、驚いたものです」

 軍人になった卒業生が来校し、「神通中から受験して不合格になった者はひとりもおらん。貴様ら先輩に恥をかかせたら承知せんぞ」とハッパをかけた。

 この年、アッツ島が玉砕し、日本は泥沼の戦争にはまりつつあった。

「この時期から、私が住んでいた地域でも貴金属や宝石、革類の供出が始まりました」(下村さん)

 学校の鉄棒は取り外された。学童の金ボタンや徽章、家庭では真鍮(しんちゅう)の火鉢や金箸、寺の鐘楼、銅像も全て持っていかれた。銅の節約のために昭和15年に発行されたアルミ貨すら回収の対象になった。代用品のさらに代用品である錫(すず)貨や小額紙幣が作られ、<アルミ貨の総動員!!一枚残らず航空決戦へ>といった「隣組緊急回報」が家庭に回覧されるようになった。

 現在の福島県国見町の農村で暮らした高野久吉さん(81)も、つらい少年時代を送ったひとりだ。当時は、繊維すらなく桑の皮で作った服が配給所にあった。数が足りないものだからくじ引きで、その服を当てた。久吉さんが着ていた服はとうにボロボロだったが、それでも桑の服は硬くゴワゴワして、着られたものではない。袖は通さなかった。

 供出したのはモノだけではなかった。

「自宅で飼っていたブルドッグと土佐犬も、連れていかれました」(前出の下村さん)

 栃木県栃木市に自宅のあった手束(てづか)のり子さん(87)は、終戦の半年前に愛犬を供出した。前年には召集令状を受けて40代の父親が出征。そしてまた、10年間家族同然に育てたタローが連れていかれる。貧しいながらも、精いっぱいのごちそうを作り、のり子さんの母が筆で、「出征犬タロー」と書いたたすきを作り、愛犬に掛けて送り出した。

「毛皮は寒い戦地の兵隊さんの衣服に、肉は食用にされるとのうわさでした」

 翌日、どうやって逃げたのかタローが家に戻ってきた。大喜びで迎えたものの、近所から通報があったのか、再び供出せよとの通告を受けた。

「終戦後にたくさんの人から、あちこちの河原に、犬の死骸が山積みにされていたと聞きました。お役にも立てないまま、愛犬たちは、文字どおり犬死にしたのでしょうか」(のり子さん)

 子供も軍のために働いた。

 昭和19年に旧制中学を卒業した川上正英さん(87)は、大分市にある大分経済専門学校へ進んだ。1学期終了後に、学徒勤労動員で福岡県大牟田市にある三池染料工業所へ行くことになった。本来は染料工場だが主に爆薬の生産を行う軍需工場になっていた。染料は、陸軍の軍服や国民服に用いるカーキ色の国防色のみ生産が許されていた。

「染料の真っ黒な微粉が毛穴にしみ込み、体中が黒ずみました」(川上さん)

※週刊朝日 2015年8月21日号より抜粋




以下は、読売新聞より。

http://www.yomiuri.co.jp/local/osaka/news/20150814-OYTNT50377.html


<戦後70年>動物殺処分 愚かな時代


2015年08月15日





◇天王寺動物園 剥製を展示


太平洋戦争中に犠牲になった猛獣の剥製などを展示する「戦時中の動物園展」が、大阪市天王寺動物園のレクチャールームで開かれている。動物園で起きた悲劇を知り、平和を考える内容。(中谷圭佑)


 100年前に開園した同園にも戦争は暗い影を落とした。餌不足や栄養失調でキリンやゾウなどが次々に死んだ。戦局が悪化し、「空襲で逃げ出すと危険」として1943年9月からは、猛獣の殺処分がやむを得ず行われ、ライオンやトラなど10種26頭が犠牲になった。

 会場には猛獣の剥製や、戦意高揚のプロパガンダに使われた軍服姿のチンパンジーの「リタ」(雌)の写真なども並ぶ。同園の榊原安昭獣医師は「飼育員はどんな思いだっただろうか。戦争の愚かさと平和の大切さを感じてほしい」と話す。23日まで。入園料のみが必要。問い合わせは同園(06・6771・8401)へ。



関連過去記事


戦後70年 猫 供出逃れ抱いて逃げたが-戦時中動物も犠牲になった



各テレビ局で、戦争のスペシャル番組が放映されていました。

当時の動画や画像がカラーで再現されていて、直視できないような画像もありました…


もう二度と、過ちが繰り返されませんように。

無垢な尊い命が奪われることがありませんように。


失われたすべての命に合掌。